最近読んだ本の中で『コラプティオ』という2011年に刊行された真山仁の小説が面白かった。
「コラプティオ」とはラテン語で「汚職、腐敗」を意味する言葉だそうだ。
正義感が強く、高潔で演説が上手く見栄えも良い政治家が、国民の熱狂的支持を受け、カリスマ的内閣総理大臣となり日本を救う希望の星になるのだが、
いつしか本人すら気づかぬうちに権力の魔力にとりつかれ、彼の虚栄心は増大し、正義を美徳とするソクラテス哲学から、
国益が守られるなら必要悪も当然だというジェレミ・ベッサムの功利主義になり、彼は独裁者に、日本は国家資本主義へ傾く。
若い頃から彼に心酔し、彼の政策秘書を務めていた若き政治学者はマックス・ウェーバーが述べた
「虚栄心は政治家にとっての大罪」という言葉を信念に持ち、彼を支え続けるのだが、
国家レベルで欲望のたがが外れて暴走するという現実はもはや政治腐敗などというレベルではないと、
あるきっかけで彼に絶望し、彼に総理大臣及び議員からの辞職を勇退という形で説得し、
日本は独裁者による国家資本主義から救われる、というストーリーだ。
私が最も共感したフレーズは「世界には理解不能の理不尽がゴロゴロしている。」というものだ。
「そうだ、そうだ、その通り」と思いつつ、難しい哲学を現代にリンクさせてわかりやすく、また面白く解説してくれる
『コラム・インテリジェンス』https://ameblo.jp/column-antithesis/というブログに先ほど立ち寄ったら
なんとこのような記事があった。
「ディオゲネスによれば、人を屈服させ隷属させることによってしか自分自身のプライドや生き甲斐を感じられないような連中はすべて、自主独立した人間ではなく『下劣な奴等』『社会醜悪の奴隷であり主犯』にすぎなかったのである。
彼が『下劣な奴等』と呼んだのは、要するに富裕層であったが、そのなかでもとりわけ下劣なのが権力者・体制側の人間たちであった。」
(「哲学者ディオゲネス──世界市民の現像」山川偉人)
と、いうことは、体制側──政治家・官僚・公的職員等々──で、しかも富裕なる人々は、下劣で醜悪なる社会の奴隷となりきってしまっている人々または主犯、そのことさえ考えもしない腐り切った人間であるのかも知れません。
「醜悪な国家とは、責任は取りたくない。自分だけ良ければ良い。が、権力だけは
絶対欲しいと考えた醜悪な人間が権力を持ってしまった結果の象徴である。」
(「狂気の歴史」ミシェル・フーコー)
上記内容と同じことが『コラプティオ』に書かれていたので、少し長いが引用する。
「政治家が無欲な解脱者であるべしとは思わない。そんな人物に魅力はない。
虚栄心や欲望は必要でそれが充たされることで政治家はさらに大きくなる。
ところが虚栄心は本人が気づかぬうちに膨張し、理性や自省を食い潰す。
慢心を生み、権力に溺れて本来有していた"徳"を崩壊させてしまう怪物だ。
憂国の士がいつしか狂気を帯びた独裁者に変身する---。」
ブロガーであるアリストスさんは記事の冒頭で、「サムライの孤独の深さは森にいる虎の孤独と同じ」だという
新渡戸稲造の『武士道』を引用して、
サムライは、他者との関係において武士であるのではなく、
己の中の文武両道を通し心の鍛錬、平常心目指す者の姿であって
けっして人を隷属させたり己の意のままに操ることを
探究する修練者ではないからこそ、孤独と正面から向き合う
達人でもあったのかも知れません。
と続けている。
つまり、優れた権力者とは誰も隷属させたり、操ったりしない孤高の人であるべきなのだ。
にもかかわらず、古今東西、権力者や富裕層、いわゆる体制側の人間は少しも変わっていない。
ああ、世界には理解不能な理不尽がゴロゴロしている・・・。