古書店主の殴り書き -6ページ目

『攻防900日(上下)』

 ハリソン・E・ソールズベリー:大沢正訳(早川書房:絶版) 【8点】

歴史に厳然とそびえる不屈の民衆劇

 決して面白い本ではない。事実を一つひとつ積み重ねることによって全貌を現す労作業が、異様な重さとなって読者に覆い被さる。ドイツ軍に包囲されたレニングラードを舞台に、第二次大戦における独ソの熾烈な戦闘が克明に綴られる。

 前半はレニングラード侵攻の端緒から全面戦争に至るまでがかなりの量で記されている。ドイツが攻め入ってからソ連が応戦するまでに恐ろしいほど長い時間を要している。ドイツの攻撃により四個師団が壊滅状態に陥っても、ソ連首脳は誰一人指示を出さない。スターリンが巻き起こした粛正の嵐の中で、ソ連首脳は完全なる官僚と堕落してしまった。人の命が枯葉のように翻弄される社会にあっては、責任を全うしようという人間などいるはずがなかった。次々と撃破される現状にようやくスターリンは動き出す。情報化社会の現代から見れば、何かのどかな印象すら受ける。ファシストの周囲には忠臣がいない。恐れることなく諫言できる忠臣は既に抹殺されていた。ところどころにスターリンが登場するが、全く人間としての顔が見えて来ない。不気味な存在として描き出される権力者は狂気に操られる傀儡を紛(まが)うことなく演出してみせる。権力欲に躍らされたスターリンはまさしくオーウェルが描いた“ビッグブラザー”そのものだった。

ある日、軍に納品されるT28型戦車の検査中、ボルトが抜けていることが発見された」(上巻176p)上からは「“手抜き工事をした敵”をひっぱり出せ」(同頁)との命令がくる。工場長のオッツは「これは1人の機械工がボルトを打ち込むのをわすれただけのことだ」(同頁)と訴えた。その結果「工場内の党員の粛正が行われ、数百人が姿を消した」(同頁)。こんな風にソ連という国はタコが自分の足を食べるみたいに国民を殺戮し続けた。ドイツに攻められている渦中にもそれは滞りなく行われた。想像を絶する狂気!

 こうした状況下であるにも関わらず、レニングラード市民は生き生きと輝く。ぐうたらオヤジに賢夫人が付き添っているようなバランス・シートである。闇が深ければ深いほど光が眩しく感じられる。神はレニングラード市民に国家元首とは正反対の美しい生き様を与えた。

 ペオストロフ防衛線が木っ端微塵に撃破される。手榴弾の破片を受けて倒れた若い兵隊が意識を取り戻すとドイツ将校が立ちはだかっていた。「『勇敢なドイツ軍部隊がもうレニングラードの並木道を行進しているんだぞ』とその将校はロシア語でいった(上巻322p)」。「『ソヴィエト・ロシアは破滅なんだぞ』(同頁)」と言われても「ミーシャ・アニシーモフという名の若者は、キッと首をあげた。口から血が流れ、顔に垂れていた。『ヒトラー一味の狒狒(ひひ)どもめ!』と彼は叫んだ。『お前らにツバをひっかけてやる。早く殺せ』(同頁)」。足蹴にされた青年はアッと言う間に射殺される。将校はそれを見ていた他の若者に言う。「『お慈悲に一言だけいっておくが、命を救ってやってもいいんだぜ』(同頁)」カナーシンという青年は立ち上がりざま、この将校の顔にツバを吐いた。直ぐさま彼の首に鎖が巻かれ、鎖のもう一端を結びつけた車が走り出した。

 そうこうする内に最大の敵がやって来た。飢えと寒さである。

 第1日あるいは2日目それとも3日目ぐらいが一番こたえる、ということをニコライ・チュコフスキーは知った。薄っぺらなパン一片しか口にいれるものがなかった場合、人はまずその第1日に、うずくような激しい飢えに襲われる。2日目も同様。だがそのあとはこの苦痛は次第に消えていって、静かな虚脱に変る。終ることのない鬱状態、それと無力感が、おどろくべき速さで進む。あなたはきのう出来たことがきょう出来なくなる、乗越えられない障害物で身の周り全体を取巻かれたような感じになる。階段はあまりにも急で、とても登れない。薪を割ろうにも、木は堅くて刃が立たない。棚の上のものをとろうとしても、高くて手が届かない。トイレの掃除などとても手に負えない重労働になって来る。この脱力状態は日に日に進む。それでいて意識ははっきりしている。あなたは自分自身を距離をおいてながめている。なにが起っているのかよくわかっているが、止められない。(下巻150p)

 人々は代用物でしのごうとあらゆる物に手をつける。ある人は壁紙を剥がしてその糊を削り落として食用にした。また紙を食べる人、更には壁土を食べた人までいたという。胃を通過させるだけの目的で。

 餓死者が続出。食べ物を巡る争いが刃傷沙汰にまで至り、人々は血眼になって口にできるものを探す。その窮乏振りは、ペットはもちろんのこと、あらゆる動物が食べられ、遂に人肉を食らう人種を輩出せしめた。

 スターリンの後継と目されていたジダーノフ党書記がある日学童の食事に立ち会った。「昼食はパン50グラムにバターをひとなすり、冷凍ビートのスープ少々にオートミール、といっても、その内容物は大方、亜麻仁かすらしかった(下巻199p)」。多くの学童が乏しい食事の一部をジャーに入れていた。ジダーノフは後で食べるために残しておくのだろうと思っていた。が、そうではなかった。子供達は親兄弟のためにそれを自宅に持ち帰るのだった。一方に人の肉を食らう人間がいて、もう一方には人のために自らの食を削る子供達がいた。飢えた子供達がジャーに食べ物を移すしぐさを想像する。その強靭な優しさに涙を禁じ得ない。

 死はレニングラードを大手を振って歩いていた。(下巻198p)

 12月10日ウズベクの詩人アリシェル・ナヴォイ生誕500年祭が行われた。2日後には第2回ナヴォイ集会が。「アカデミー会員B・B・ピオトロフスキーが『古代東洋神話のモチーフとアリシェル・ナヴォイの創作』と題する講演をした。次いでレーベディエフが、詩『七つの惑星』の抜粋を朗読した(下巻219p)」レーベディエフはその場で倒れた。倒れた後も彼は最後の力を振り絞って詩の一節を口ずさんだ。彼はそのまま死んだ。

 12月半ばになると餓死者の数は日に6000を数えるまでになる。道端で倒れたまま死にゆく人の姿が日常的な光景となる。死体を運んで、そのまま力尽きて死ぬ人も。ふと会話が途切れると既に亡くなっている。死体と化した親とそのまま生活を共にする子供があちこちにいた。死、死、死……。

 その中にあってレニングラード市民の間では詩が詠じられ、美術が語られ、トルストイやドストエフスキーが読まれる。

 文化の底力が死と拮抗(きっこう)する。たとえ死が訪れたとしてもそれは安らかなものに違いないと私は信じる。

 エルミタージュ美術館の地下では学究達が仕事を続けていた。彼等は「小さな手燭やろうそくで書物やものを書く黄色い原稿紙(ママ)の上を照らし、インクは凍りそうになるのでたえず息で暖めなければならなかった(下巻p221)」。毎日2~3人が死んでいく中で、生き残った研究員は死ぬまで仕事をし続けた。

 Z ジェーニャは、1941年12月28日昼12時半に死にました。
 B バーブシカ(おばあさん)が1942年1月25日に死にました。3時に。
 L レーカは1942年3月17日5時に死んだ。
 D デャーデャ(おじさん)ワーシャは1942年4月13日夜中の2時に死にました。
 D デャーデャ・レーシャは1942年5月10日、午後4時に死にました。
 M ママは1942年5月13日、朝7時半に死にました。
 S サヴェチェフの一家は死にました。みんな死にました。ターニャだけ残った。
(下巻289p)

 ターニャの日記である。当時11歳だった彼女は1942年の春に疎開。ゴーリキー地区のシャフティ村、第48「子供の家」に送られる。その後、赤痢に罹(かか)り、医師の努力も空しく1943年夏に死亡した。巻末にターニャの肖像と日記の原文の写真が掲載されている。こんな愛くるしい顔の少女が家族の死をアルファベットの練習帳に淡々と書き記した。鉛筆の芯にどれほどの悲しい力が込められていたことか。「ターニャだけ残った」この一言に、ぽっかりと空いた広大な穴に湛(たた)えられている涙が見える。

 タス通信のレニングラード通信員ルクニーツキーは記した。

 この市を去らなくてよかった。この都と運命をともにし、それに参加し、この前例なき困難の目撃者となれた私は幸せである。そしてもし私が生きることがあれば、このことは決して忘れることはあるまい。1941年、42年冬の愛するレニングラードを。(下巻288p)

 美しい都市を愛する市民感情が幾度となく書かれている。愛国心とは違う。言うなれば恋愛感情に似たようなものであろうか。私の中には全くそういうものがないだけに何とも羨ましい限りだ。長い時間を費やしながら都市そのものを築き上げた市民の歴史と伝統が、そうした心を育むのであろうか。

 ドイツは900日の攻防の末、撤退を余儀なくされた。それはスターリンに負けたのでも、ソ連軍に負けたのでもない。また、冬将軍に敗れたのでもなかった。レニングラードという、生きた人間と一体になった都市に負けたのだ。一読後そんな気がしてならない。

 スターリンの粛正の嵐はその間、全く止むことがなかった。

 更にレニングラードが解放されるや否や、公式文書の大半が破棄されたという。

 推定死亡者数150万人。その後、歴史はソ連流に書き換えられる。

 数年を経てピスカレフスキー共同墓地に墓碑銘が刻まれた。

だれひとり忘れまい
 なにひとつ忘れまい
」(下巻p333)

◎関連リンク

ターニャの日記
ハリソン・E・ソールズベリー

目撃された人々(9)

 早稲田青空古本祭の初日は雨にたたられた。青空が顔を出した2日目に足を運んだ。場所は早稲田大学文学部傍の神社。前日が雨だっただけに結構な賑わいだった。若い女性もチラホラ見えたが、あれは早稲田の学生さんかしら。収穫はまあまあといったところ。及第点ギリギリですな。早稲田古書店街の総力を挙げてこんなもんかね? というのが偽らざる実感である。

 この手の場所で業を煮やすのは、 古本屋のオヤジとおぼしき年寄りが自分の動くペースを死守する余り、平気で人の身体にくっついてくるところだ。昨日もある年寄りが3度、同じ真似をしてきたので「オイ!」と声を荒げた瞬間、すっと身体を離すのだが、どこ吹く風といった面持ち。

 もう一遍やったら鳩尾(みぞおち)にパンチを入れてやろうと思ったが、チャンスは訪れなかった。ジイサンのレーダーには、私の顔がちゃあんと引っ掛かるようになったらしい。

 政治家どもがぼーーーっとしている間に、不況の大波が次々と襲いかかってきているが、その中であれだけの賑わいを目にすると、なんとも心が励まされる思いがする。

『タレントその世界』

 永六輔(文春文庫:絶版) 【9点】

 忘れ難い本がある。いたく感動した作品なんぞもそうなんだが、探し続けた挙げ句にやっと見つけた本の方が生々しい記憶となって脳味噌に刻み込まれている。私の場合だと、丸山健二の『メッセージ 告白的青春論(文藝春秋)』や、ハリソン・E・ソールズベリーの『攻防900日(上下)』(早川書房)、P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編の『イタリア抵抗運動の遺書』(冨山房百科文庫)など。

 見つけた瞬間の動きといったら、そりゃもう、フェンシングの“突き”さながらで、一閃の光芒を放つほどである。そして、今回、紹介するこの本もその一つ。永六輔の『タレントその世界(文春文庫:絶版)』。向井敏が書評で持ち上げているのを読んでから、ずうっと探していた。タレントの発言やエピソードなどが収録されており、いずれも寸鉄人を刺すような余韻をはらんでいる。

 永六輔という人物はあんまり好きじゃないんだが、こうした情報収集になると右に出る者は、まずいないだろう。

 福沢諭吉は杵屋弥十郎を贔屓(ひいき)にした。
 ある時に弥十郎を呼ぶと『三味線がこわれているので』と断ってきた。
 福沢が弥十郎の家の近所の質屋を調べると案の定、弥十郎の三味線が入っている。
 それを受けだしておいて、芸はしなくていいからと弥十郎を呼び『私の三味線で弾いてくれ』と例の三味線を出した。
 これが弥十郎を大成させるキッカケになった。
(14p)

 こんなエピソードを知ると、10000円札の顔も優しく見えてくるから不思議だ。願わくは、その優しいお顔をもっとたくさん見させておくれ。

 高度経済成長前の聞き書きは、貧・病・争を思わせるものが多く、それだけに“生”の実感と息遣いに満ちている。例えばこう――

 ジョセフィン・ベーカーが踊り出したキッカケは寒かったからなのだ。(148p)

 かと思えば、こんなのもある。

 かつての横綱常陸(ひたち)山は眼力をきたえるのに堂々と道でウンコをした。
 当然だが道を行く人は好奇の目でウンコをしている常陸山を見る。
 その目をにらみ返すのである。
(134p)

 自分を鍛えようと思えば、如何様な知恵も出るという手本である。ただし、真似はしないように(笑)。

『ポストマン・ブルース』

 サブ監督(日活) 【8点】

 B級映画の傑作である。邦画を見て快哉を叫んだのは和田誠監督のデビュー作『麻雀放浪記』以来だ。新世紀の初日に再びビデオで見た。

 郵便物を仕分けする業務が映し出される。全くやる気のない表情。シュコーン、シュコーンと振り分けられる郵便物。カットが替わり、台車を引きずる音。ウンザリした記憶が蘇る。これらの映像がが徐々に短いペースで交錯する。滑り出しで奏でられるのは、日常の隣合わせに存在する狂気――。

 平凡な郵便配達人である沢木(堤真一)が、高校時代の友人である野口(堀部圭亮)にハガキを届ける。部屋へ招き入れられた沢木が目にしたのは、詰められたばかりの小指だった。ここからの、やりとりが面白い。ここで笑えぬ人は、これ以上見ない方が賢明だろう。野口はまるで充実した肉体労働に従事しているかのように、ヤクザという仕事を自慢する。

 このシーンが全体の基調だ。異質な場面で常套句を使うことによって笑いを生んでいるのだ。

 野口を張っている刑事達がここで勘違いをする。沢木が郵便配達人を装った覚醒剤の運び屋であると。この辺りも大笑い。キャストが素晴らしいのだ。如何にもチンピラ、如何にも刑事といった印象の俳優達なのだ。

 刑事達はまるで迷宮入りの事件の謎を解いたかのような勘違いに取りつかれ、沢木に対してまで張り込みをするようになる。

 自宅へ帰り、呑んでいた沢木はビールが切れたことに気づく。その時、日常に潜んでいた狂気がムクムクと頭をもたげる。沢木は郵便物を引っくり返し、現金書留の封を切る。ビールを山ほど買ってくるなり、次々と郵便物を開封し出す。その中に、末期癌を患った少女(遠山景織子)が書いた手紙に目が止まった。少女を探し出し、淡い恋に陥る二人。そして、病院で知り合った、殺し屋ジョー。ジョーはまるでサラリーマンの悩みを打ち明けるようにして、沢木に心を打ち明ける。「殺し屋もさ、仕事がなくて大変なんだよ」などと。ここに挿入される「全国殺し屋選手権」エピソードがまた面白い。『レオン』や『恋する惑星』でお馴染みの殺し屋が登場する。

「私、いつ死ぬかわからないから今が一番大切なの。だから、約束はしないの」と語る少女に、沢木は敢えて約束をする。明日、3時に病院へ迎えにゆくから、と。そうこうしている内に、沢木は“連続バラバラ殺人事件”の犯人に仕立て上げられていた。恋物語から一転、ドタバタ・ブラックコメディに再び戻る。ここからの見せ所は自転車の力走。デビュー作『弾丸ランナー』で走りっ放しの映像を撮っていたサブ監督の腕が随分と鳴ったことだろう。

 沢木は少女との約束を守るため、ひた走る。そして、刑事を射殺したジョーも、幼馴染みの魚屋の自転車にまたがって走り出す。更に、沢木の全国指名手配を知った野口も、クリーニング屋の自転車を拝借して走り出す。

 ラストに向かって3人が肩を並べて走る姿は痛快だ。そして圧巻のラストシーン。余韻に浸る間もなく字幕が躍る。その劇的な様はクエンティン・タランティーノを凌駕したと言って好い程だ。

 結末がファンタジーっぽくて好みが分かれるところだろう。しかし、私は「約束を守った」という一点で密かな感動を抑えられなかった。

『女について』

 ショーペンハウエル:石井正、石井立訳(角川文庫:絶版)

 解説があるという理由で、文庫化された作品を必ず買う人がいる。また、本を置くスペースを少しでも省くために買う人もおりますな。この場合、元々持っていたハードカバーは処分される羽目となる。集英社文庫などは、名の通った人物に解説を書かせている。

 解説やあとがきを最初に読む方も多いだろう。作品全体がそれとなく把握できますからな。但し、ミステリの場合を除く。

 思わぬ解説に出会うと、解説目当てで、ついつい買ってしまう本もある。小林秀雄の『モーツァルト』(集英社文庫:絶版)だったかは、妹の高見澤潤子の文章を拝借したものだったが、いたく感動した覚えがある。

 以下に紹介するのはショーペンハウエルの作品解説だが、大変、味わい深い内容だ。実際のページには、ショーペンハウエルの鼻から上の部分に当たる頭蓋が図示されている。

「この頭蓋をはじめて見たときに最も多く尊敬の念をおこさせるものは」そうグウィンネルは書いている、「いくぷん低めについている両耳の間におけるこの幅の広さである。長さと高さとほ幅に対抗しておおよそ等しいといってもよいほどに伸びなやんでいる……。もしも最初聖ミール・フシュケにょって試みられた脳の三つの大きな区分の意味づけが正しいものだとしたら、それによると感情の生活は前頂脳に、理知の生活は前頭脳に、そして意志の生活は後頭脳に、それぞれの中心点をもつといわれるから、そこでショーペンハウエルの頭蓋について頭蓋骨相学的な判断をしてみると、意志の領域が、感情や情緒の領域を超え、いやそればかりか、認識の領域をも越えて、断然たる優勢を示すという結果になる。頭蓋の三つの脊椎骨〔前頭骨と頭頂骨と後頭骨、ゲエテが脊椎動物の頭蓋構造は六つの脊椎骨から発達してきたという見解を発表しているのに拠る〕のすべてが、おおむね高度に作りあげられているのほもちろんのこと、しかも力と意志との領域の法外な発達ほ、この頭ろに、これをはじめて見た印象によると、それが或る学者のものとほ思われないで、むしろ或る競技者のものかとも思われるはど、著しくそれ自らの差別を示す性格を与えている。このような力の充実、さらに進んで、過剰な力が強烈な知性のさきぶれをつとめていたことは、前方にもりあがった額のあたりの豊穣な発育をみれば、よくわかる」と。