古書店主の殴り書き -20ページ目

『狐の書評』

 (本の雑誌社:絶版)1992年5月初版 【9点】

 人は、自分が好むものを褒められ、自分が嫌うものを貶(けな)されると快感を覚えるようだ。

 たまたま、ネットを渉猟していたところ、「狐」と名乗る匿名書評家がいることを知った。イエロージャーナリズムの代表選手といえる「日刊ゲンダイ」で健筆をふるっている模様。この手のメディアは私の嫌悪するところなので、知りようがなかった。

 検索したところ、復刊ドットコムのこんなページを発見。丸山健二の『野に降る星』を褒めてるとすれば、何としても入手する他なかった。

 文章はヒラリヒラリと蝶の如く舞い、該博な知識が顔を覗かせるものの嫌味なほどではない。晦渋(かいじゅう)な表現は退け、本に寄り添いながらも溺れることのないバランス感覚が光っている。ま、夕刊紙に掲載される書評だから、小難しく書くわけにもいくまい。いずれも、800字という土俵で、活字が風のように舞い、吹き抜ける。

 それにしても、心憎いばかりの表現が多い。先ほど書き上げた、『となりのひと』を読んだのも、狐氏が書評で取り上げていたからだった。事前に読むと、影響されてしまうので、書き終えてから本書を開いてみた。

 書き出しはこうだ。

 破滅的なほどの狂気ではない。ほんの微量を抽出できるくらいの、ささやかな異常である。(146p)

 そして、締めくくりはこう。

 暮しに一滴の異常がしたたる。衣食住のすみずみに、気づかぬくらいに淡い色の、あるいは気づいてもあくまでルーチンな色彩の狂いがにじむ。(147p)

 カアーーーッ、逆立ちしてもかないませんなあ(笑)。

 丸山健二の『野に降る星』はこうだ。

 情け容赦もない、がちがちに氷結したような文章だ。書きながら、作家は血くらい吐いているのではないか。(41p)

 そして、「きつい、きつい」を連発し、この作品を音読で読むよう勧めて、こう結ぶ。

 この荒ぶる小説は、黙って読んでへこたれたら負けだ。(42p)

 本の選択は幅が広く、プルーストからイッセー尾形に至るまで、固かろうが軟かろうが、ムシャムシャと咀嚼している。これほどの知識がありながらも、ペン先は枯れてなく、むしろ壮(さか)んな印象が強い。ということは、容疑者から田村隆一は除かれる(笑)。私がまだ読んだことのない高橋源一郎か林望に当たりをつけていたが、両者の作品も取り上げられていた。胆力の強さが開高健を彷彿とさせ、ちょいと洒落た言い回しが向井敏を思わせ、視線の軽やかさが芥川喜好を想像させる。

 殆どの書評に食指が動く。プルーストの『失われた時を求めて』(筑摩書房)なんぞは、一生、お目にかかることはあるまいと思っていたが、こんな文章を目にすると、「いつの日か……」などと妙な希望が湧いてくる。

 翻訳完結にあたって、ある詩人は、「一気読みの好機の到来」と書いているが、それはどうか。一気読みで挫折するより、ゆっくり、ゆっくり時間を失いながら読みたい。小説に書かれた19世紀末フランスの小都市における主人公と同じように、読み手自身もじんわりと時間を失速させていく。この小説を読む快楽はそこにある。(25p)

 いずれにせよ、どの書評も、何らかの興味や関心に火をつけることは、私が請け合おう。中にはハズレもあるかも知れないが、それはそれで、「狐に化かされた」と思えばいいのだから。


『デイ・アフター・トゥモロー』

 監督・脚本 ローランド・エメリッヒ 【5点】

『デイ・アフター・トゥモロー』をビデオで見た。

 ハリウッド映画の多くは、地球外生物と戦闘状態となり、最後に核兵器を使用する“ペンタゴン御用達(ごようたし)映画”と、世界が終末を迎え、登場人物の誰かが神様を象徴する“キリスト教的戯画作品”に分かれるというのが私の持論だ。

 この作品は後者。迫り来る危機をギリギリのところでくぐり抜ける様は、さしずめ、洪水から救ってくれるノアの箱舟のよう。病気の少年に寄り添う母親がマリア様を表し、ニューヨークに取り残された我が子を救い出しにゆく父親がイエス役という構図。

 どこを見ても不自然で、どのシーンも偽善に満ちている。また、アメリカものは、家族関係がベタベタしていて薄気味悪い。「電話口で一々、『愛してるよ』なんて言うんじゃねえ!」と叫ぶのが常識というもの。

 だから、この映画を物語として見てはいけない。そうでないと、前田有一氏が言うところの「吐き気がする」だけで終わってしまう。これは、現在のコンピューター・グラフィックでどのような演出ができるかを教えてくれるCGショーなのだ。地球の半分が凍りつくシーンは、誰が見ても興味深いものだ。

 また、京都議定書に反対しているアメリカで作成されたことにそれなりの意味はあろう。唯一、評価できるのは、主人公の息子役が、映画の中でどんどん凛々しく成長してゆくところだった。彼女役は可愛ければ誰でも務まるだろう。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

 監督・脚本:ラース・フォン・トリアー 【10点】
 出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ

 一度見て、度肝を抜かれた。いずれの方向にせよ、人の心が動くことを感動というのであれば、確かな感動があった。だが、その一方で、二度と見ることはないだろう、とも思った。この衝撃は一度見れば十分なもので、何度も鑑賞する類いの作品ではない。

 所感を記そうと、ネット上の情報を物色していたところ、阿部和重がパンフレットに書いた一文に遭遇した。予想もつかない視点から物語を解き、映像の奥深くに込められたメッセージを鮮やかに読み取っていた。私は頭を殴られたようなショックを受けた。

 ネットで見つけた阿部のテキストは一部だったので、それからというもの、パンフレットを入手するまでに3ヶ月ほどを要した。

 そして、私はパンフレットを座右に置き、再びビデオを見た。阿部が汲み取ったものを見逃すまい、と。ビデオが終わって、パンフレットを初めて開いた。やっぱり負けた(笑)。

 二度目ではあったが、予想に反して、私は画面に釘づけとなった。カットの一つ一つが、しっかりと物語を構成していた。

 冒頭、シミのようなものが浮かび、図と地の区別がつかなくなる。

 ハンディカメラで撮影されていて、画面が常にブレている。ブレた分だけ見ている側に緊張感を強いる。あたかも人の視線に入り込んだような感覚にとらわれる。ライトも当てられず、極端な効果音やBGMもない。こうして、揺れる画面は自分の眼となり、観客は無理矢理、映画の中に引きずり込まれる。

 40分ほどが経過して、リズムが奏でられ、主人公セルマが踊り出す。場面がミュージカルとなると、映像はピタリと揺れなくなる。現実は揺れ動き、空想は完成された世界だ。

 セルマは歌う。「もう見るべきものはない。何もかも見た」と。

 セルマは踊る。「ミュージカルでは恐ろしいことは起こらないわ」と。

 シナリオはメッセージを主張することなく、見る者に思索を強要する。

 空想シーンであるミュージカルと現実がラストで一致する。セルマは獣のような声で叫び歌う。「これは、最後の歌じゃない!」。

 現実の世界でセルマがステップを踏むと、彼女は宙に舞う。真っ直ぐな姿勢で。運命と戦い、病苦(主演女優の名前とダブって仕方がない)と戦い、世の中の矛盾と戦ったセルマは、遂に自由を手に入れた。

【付記】余談になるが、二度目の方が私は泣けた。特に、獄中のセルマと面会するジェフの姿は、私が知る限りでは、究極のラブシーンである。また、セルマの同僚がカトリーヌ・ドヌーヴであることも後から知った。大女優であることを気づかせないほどの抑制された名演である。また、ミュージカルの曲が好評を博しているようだが、私の趣味とは全く合わないものだ。それでも、お釣りがくるほど堪能できた。尚、パンフレットに掲載されている阿部和重の「反転する世界」は類い稀なレビューである。そっくり紹介したい気持ちに駆られるが、やはり、少々苦労はしても、直接、入手された方がよろし。

『彩花へ、ふたたび──あなたがいてくれるから』

 山下京子(河出書房新社) 【9点】

 いまだ闘い続ける女性から再びのメッセージである。

 平成9年暮れに『彩花へ─「生きる力」をありがとう』を出版。年が明け、読者から続々と手紙が寄せられ、あっという間にその数1000通に及んだという。

あなたがいてくれるから──。亡くなった娘が、見ず知らずの多くの人々の心の中で生き続けていることほど、今の私にとってうれしいことはありません(3p)」。

 この本は読者への感謝を込めて綴られた母からの返事である。

 第1章が前作の出版の経緯とその後、次に『私たちこそ「生きる力」をありがとう』と題して読者からの手紙を紹介。そして、最後に構成を手掛けてきたジャーナリスト・東晋平による解説、の3章で構成されている。

 感動がまざまざと蘇る。山下彩花という少女が私の中で息づく。私は既に彼女を知っている。10年という歳月を流れる星の如く駆け抜けるように生き、死して尚、幾十万の人々に希望の光を降り注ぐ、鮮烈なる魂の持ち主。犯人とされる少年が振るったハンマーも、彼女の魂にかすり傷ひとつ負わせることはできなかったに違いない。

 山下さんは言う、「私は決して強くなんかない」と。「悲しみを乗り越えたわけでもない」と。反響の大きさに驚きながらも、自分への過大な評価を斥ける。「たしかに、立ち直る努力はしています。でも、そんなに簡単なものではないのです。1年半を過ぎた今でも、泣かない日は1日たりともありません。大事な大事な子供を他人の手で奪われて、立ち直れるような母親はいないでしょう(23p)」。

 彼女を特別視して得られるのは「自分には無理だ」との諦観に他ならない。それでは、いくら感動しても、たちどころに冷めてしまうだろう。そうした行為自体が底の浅い己自身となって跳ね返ってくるのだ。挙げ句の果てには、泣いたり笑ったりということがテレビの前でしかできないようになるだろう。

 だが、私は敢えて言おう「彼女は強い」と。強がるような素振りを見せないのがその証拠だ。ありのままの自分をさらけ出し、自分の弱さをも否定しようとはしない。そこに強靱なしなやかさが秘められている。『疾風に勁草を知る(疾風が吹いて強い草がわかる)』との俚諺(りげん)があるが、そうした「心の勁(つよ)さ」を感じてならない。バネのような弾力をはらんだ瑞々しい人間性。それは「汝自身を知る」者の強さなのかも知れない。

 1周忌を終え、5月に納骨。その際、錯乱に近い悲しみに襲われた事実が書かれている。悲しみにのたうちまわる中で、山下さんは一つの哲学を見出す。

人間として生きていくうえには、深く悲しむこともまた必要なのだ(27p)」。

 そして、

悲しむということは、自分とその人との関係を深く考えること(27p)」であり「深く悲しむことができる人のみが、深い喜びと深い怒りを知ることができるのだ(27p)」と。

 実際に地獄を経験した者のみが知り得る言葉は、悟性の輝きに包まれている。

 第3章で東晋平が、

あの戦時中、中国大陸で生体実験や虐殺に手を染めた医師や兵士の大半が、わずかな罪の意識をを抱きつつも、あれは戦争の狂気だったのだと割り切って、罪の意識に苛まれることもなく戦後を生きているのです。
 殺された者が自分と同じ人間であるということすら想像できず、その悲しみに共感する能力が欠落していたがゆえに、自分の行為への悲しみも感じない。自分が背負うべき重圧と悲しみを、軍隊という集団に預けて、自分が傷つかないように生きてきたのでしょう
(197p)」と敷衍(ふえん)している。

悲しみを心に深く抱き続けながら、それを価値へと変えていく生き方を知ることができました。(中略)そういう生き方を見いだしていくことができれば、私たちは人生のどんな苦悩や失敗も、未来のための財産に変えていかれるような気がします(28p)」。

 涙の海の涯(はて)から金色の太陽が昇る。

 第2章の圧巻は東京都世田谷区の大野孔靖くん(小学校4年生)。

すごい本ですね。この文は、人間に本当のことをおしえてくれるすごい文です。はじめは、この事けんで悲しかったのに本当にこんなすごい文ですごいと思いました。ぼくは『自分で自分とたたかい、自分をすこしでもよくしていくのです』というところがよかったです。ぼくは、自分で自分とたたかってよくしていきたいです(112p)」。

 偉い! と私は膝を打った。さすが諸葛孔明と井上靖を併せたような名前を持つだけのことはある。子供の直観が見事に本質を捉えている。たどたどしい文章がかえって感動を鮮やかに表現している。

 言葉を紡ごうとするよりも静かに内省するがいい、そんな気分に浸される。軽佻浮薄で小賢しい評論、世俗の垢にまみれた貪欲な宗教、問題の全てを子供に押しつける教育、そうした暗雲を遙か下方に見下ろし、山下さんの言葉は無窮を遍(あまね)く照らす。

 我が娘を喪い、生命の尊厳さを思い知った母は、多くの青少年の自殺に心を痛め、次のように語る。

けれども私は今、思うのです。死にたくなるほど苦しい思いをしたときが、人間が本当に幸福になっていくチャンスなのだと。自分の人生を、大きく変えていくときなのだと。 苦しいとき、辛いとき、虚しいときには、目をつぶらないで、その悲しみと徹底的につきあうことです。ハラを決めて、水底まで沈んでみることです。深く深く悲しめば、必ず新しい力が湧いてきます。
 自分が変われば、必ず何かが動き始めます。死ぬ勇気を、自分の変革に向けていくのです。他人に苦しめられているように思えることでも、全部、自分の人生なのです。そうであれば、自分で新しい道を切り開くしかありません。
 その、人間の生命の深い方程式が見えてくると、身に起こるあらゆる不幸も、悲しみも、苦しみも、自分の人生を飾る意味のあるものに見えてくるはずです。
 この世に必要のない人間なんて1人もいませんし、価値のない人間も1人もいないはずです。自分には価値がないように思えるときがあっても、決めつけないで、自分で価値ある自分をつくっていけばいいのだと思います。(中略)
 人間には、価値を創り出していくすごい力があります。
 生きている人間に、何ができないといえるでしょうか
(93p)」。

 この言葉を聞けば自殺せずにすんだ子供も山ほどいただろう。なんと優しく、力強い言葉だろう。悲母観音さながらではないか。

 市井にこうした人物がいるという事実に、まだまだ日本も捨てたものではない、と心を強くした。河野義行さん(著書『「疑惑」は晴れようとも:文藝春秋』『妻よ!:潮出版社』)にしてもそうだが、平凡にして偉大な人物はいるものだ。

 生死を超えた母子の絆に、永遠を感じた。

山下京子

『彩花へ――「生きる力」をありがとう』

 山下京子(河出書房新社) 【10点】

■絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇

 泣いた。感動した。魂を揺さぶられた――。

 事件(神戸少年事件)から1年と経たないうちにワープロと向かい合うまでにどれほどの勇気を奮い起こしたことだろう。キーを叩くことは我が子の死を見つめることに他ならない。指先に込められた力は心の勁(つよ)さそのものだと私は想像する。

 娘の死、しかも惨殺、その上、犯人は少年。三重の悲劇は言語に絶する苦悩をもたらし、精神がズタズタに切り刻まれるほどのストレスを与えたに違いない。余りにも過酷な運命と対峙し、もつれ合い、叩きつけられそうになりながらも立ち上がった母。それを可能たらしめた力の源は何か? 生きる力はどこから湧きだしたのか? 絶望の淵から希望の橋を架けられたのはなぜか?

 ページをめくり、感動を重ねるごとに疑問は大きくなる。

 音楽コンサートを通して文化を語り、報道被害の体験からマスコミに警鐘を鳴らす。実生活の中から紡ぎ出された。人生観・人間観がちりばめられている。机上の哲学など足元にも及ばぬほどの人間の叡智が輝いている。それはぜか?

 疑問はどんどん膨らみ雲のように立ち込める中で、彩花ちゃんの姿の輪郭がくっきりと見えるような気がした。あっ、と思うと雲は吹き払われ、彩花ちゃんの直ぐ後ろに山下京子さんがいた。

 母と娘(こ)の絆だったのだ。死をもってしても揺らぐことのない、死をも超えた永遠性をはらんだ絆だ。時空をも超越した生命的なつながり。次なる生によって再び母子(ははこ)と見(まみ)えるであろう確信。事件を必然性から捉える達観。山下さんは永遠なる絆を絶対的ともみえる態度で信じられるのだ。その生命と生命の絆は更に普遍なるものへと昇華し、犯人とされる少年Aをも母性によって包み込もうとする。行間に涙があふれ、紙背に血が滴る思いで記された言葉は限りなく優しい。

 山下京子さんの崇高な生きざまに接し、私の心までもが浄化された感を抱いた。

 事件に同時代性があるだけに、『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル著:みすず書房)以上の感動を覚えた。

 これほどの魂の劇と、慈愛の詩(うた)と、聖なる物語を、私は知らない。

山下京子