19年前の事
だいぶん記憶も途切れ途切れになってきました。

大学に通うために独り暮らしをしていた私は
2日前に成人式で実家に帰っていたのに
すぐに帰っていたため
震災発生時は神戸にいませんでした。

あの時間、すでに起きていて
揺れが落ち着いたからとりあえず実家に電話をしました。

でも、ベルはなっているのに
誰も出ない。

そうこうしているうちに
テレビではどうやら神戸方面が震源地かもと
報道しはじめて…


当時付き合っていたダンナにお願いだから
神戸まで車で連れていってほしいと
むりやり仕事を休んでもらい向かいました。

すでに高槻あたりから車が混みはじめて
京都を7時過ぎに出たのに
尼崎に着いたのが12時過ぎ。
それまでに途中途中で電話を入れるけど
やっぱり出ない。

実は、成人式でポートライナーにダンナと乗っていたら
「ここ(ポーアイ)ってさ、地震来たら液状化がすごいんだろうね」
といわれ、
「神戸ってめったに地震来ないんよ、
子供の時なんか地震が来たらみんな半分喜んでたもん」
なんて軽口たたいていたんです。

まさかその2日後に本当にそんなことになるなんて…

尼崎からは本当に車が動かなくなりました。
コンンビに入ってももうなんにもない。
とりあえず、残っているおにぎりや水を買えるだけ買って
西に向かいました。
京阪神って川が多くて、
どうしても川を渡る際に渋滞します。

それでもまだ武庫川を越えるまではマシでした。

西ノ宮に入ると今度は普通の道路も
ガス管破裂や水道管破裂で通れない。
入ってはバックし、入ってはバックして知っている道を
全て試しながら進んでいきました。

芦屋を抜け神戸には入れたのが3時過ぎ。

もうすぐで家族に逢える、と思い
ほっとしたのもつかの間、
いつもの道もまた通れなくて
バックしていると
なんだか後ろの景色、空の空間がおかしい。

そう、高速道路の走行面がこちらに向いて倒れていました。

それまでなんとかうちは大丈夫だ、と
気を張っていたのが
ああ、だめかもしれない、覚悟しなきゃと思ったのです。

そして、実家へむかうと…やっぱり崩れていました。
国道43号線と2号線に挟まれた、
被害が大きい地域でした。

隣のアパートが突っ込んでくる形で
2階が滑り落ちるようになって1階を押し潰して
反対側の駐車場に崩れていました。
まず、それを見て1階で寝起きをしていた祖父母が
どうなったのかと思っていると

そばで住んでいた祖父の弟が出てきてくれて
説明してくれました。

祖父は起きていたので逃げられたこと
祖母はタンスがつっかえになり
なんとか下敷きにはならなかったが足を挟まれてしまい
近所の方にジャッキで瓦礫を除けてもらって
どうにか避難所に連れていってもらったこと
両親と弟も無事で避難所へいっていること…

話を聞いてから急いで避難所へ向かうと家族には逢えましたが…

私には何もできませんでした。

買い込んだお水やおにぎりを置いてくるだけ。
そのまままた帰っていくだけでした。

家へ帰ると私と逢うちょっと前に
母が列にならんでかけたきてくれた電話のメッセージが
録音されてました。

「もう、全部崩れてしもた、崩れてしもたわ」

今でも私には何もできなかったという思いが
常に付きまとっています。
危ないから当分神戸には来るなといわれていたし
できることは必要な物資を運び込むだけで…

家族や友達が被災してても、私はそこにいなかったから
本当の絶望や苦しみや悲しみをわかることができない。

でも、皮肉なことに実家にいてたら私は
ベットの真下のキッチンにあった冷蔵庫に突き上げられて
命を落としていたかもしれないと言われました。

でもボランティアに参加する、ところまでは気持ちが向かなかった。
何もできなかった、といいながら
もっとできることはあったんだろうと
責める自分もいるけど、出来なかったと言い訳をする自分もいる。

今、ここで私が生きていること。
悲しいことやその時味わった無力感も忘れていきながら
それでも生きていくこと。

そんな自分を卑しいなと思いながらそれでも生きていくこと。

生きていく事の方が残忍でズルくて卑怯で…
そう思いながらもそれでも生きていくこと。

忙しさにかまけて
明日には忘れてしまう感情かもしれないけど
今日は1年に1度でも思い出す日でいいと思っています。

それも私なんだって
今は思えるようになりました。



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