優子は看護師の母親と二人暮らし。物心ついた時には母と二人きりだったから保育園で友達のお父さんという人を見た時なんでウチにはお父さんがいないのかな?と思った。
ある日の日曜日、2人でお昼ご飯を食べている時にふとそれを思い出して母親に尋ねると、母親はそれまでの柔和な顔を強張らせて黙ってしまった。
それ以降、優子は2度とその質問をしていない。
聞いてはいけないことなんだ。と察したからだ。
優子はいつも察してしまう。人の心を読んでしまう癖がある子供だった。
あの時の母は明らかに動揺し、笑顔の下に隠していたもう一人の母親の素顔を晒した。
知らなくていい。母のあんな顔は見たくない。あの、強張らせた表情の下には母親でさえも未だ消化できない過去の闇が潜んでいるのだろう。小さな優子は本能的にその暗闇を感じ取ってしまった。優子のトラウマになってしまうほど怖い顔の母を見てしまった。そして、これからは絶対にお父さんのことは聞かない。と、心に決めた。
明るくて優しい母親にはもう一つの顔がある。
しかもそれは二度と見たくない顔。それ程怖い顔として記憶に刻まれてしまった。
優子はたった1人の家族である母親を気遣いながら母親を中心に生活し、成長するにつけ母親のもう一つの顔、人生についてもすっかり忘れてしまっていた。
父親がいないというくらいで他には特に不自由もなく親しい友達も数人いて親友と呼べる子もいた。
察しの良い優子は世間で波風を立てない穏やかな人として成長していた。
優子が高校卒業後の進路として看護師としての道に進むか迷っていると、母親は「美容系のお仕事は、どう?」と勧めてきた。
母親は、癌専門の病院でアピアランスに特化した分野での仕事をしていたので、ウィッグやネイルケアなどを扱い美容分野に詳しかった。
「美容業界はね、華やかで活気があって、強くて大きいエネルギーがあるわよ。全身のパーツ毎に美を追求して成長しているところがすごいのよ。」そう言って感心していた。
そして、楽しく仕事する、好きな事を仕事にするのが一番いいよ。母親の嬉しそうな顔を見て、優子は嬉しくなる。
「お母さんは看護師なのに、看護師って面白くないの?」優子は、素朴な疑問をぶつけてみた。
「そうね、、、実はね、看護師は本来追求するべき概念がすっかり様変わりしてしまったから、腑に落ちない事が多すぎて、あまりおすすめできないのよねぇ」
そしてこう言って笑った。
「看護師はいつでもなれるから」
現役の看護師の母親のアドバイスは、大きく優子に響いた。(まずは美容系に進んでみよう。ダメなら看護師になろう。)
美容専門学校に進み結果的にエステサロンでの仕事を選んだ。
エステは人の身体に向き合い、細胞を活性化ささる仕事である事に気づいたからだ。
細胞って面白い。私の中にこんなにたくさんの細胞があって私を生かしているんだもの。それを私の技術でもっと活性化できるかもしれない。
やりたい!この仕事。
優子は、会社の面接で志望動機について聞かれた時、この思いを打ち明けた。
面接官は、大きく頷いて素晴らしいと口々に褒めた。無事入社となり大手エステサロンのエステシャンとして配属先が決まった。
入社してからはひたすら仕事と研修に明け暮れた。
当初考えていた細胞レベルの云々という動機もすっかり忘れて、日々接遇と接客スキル、基本施術など学びの積み重ねに追われた。
そして5年目を迎え顧客も増え後輩の指導やマネージメント業務も少しずつ増えて責任が増してくる。
エステシャンを志した動機も、すっかり忘れて
会社の運営の波に呑まれていた。
そこに転機となる研修の話が来た。
「でも、私、別に悩みもないしトラウマなんて無いと思う。」
尚矢にそう言うと、「自分に向き合う事は別にトラウマとは限らない」と言われた。
自分と向き合う。
自分に向き合うって一体何なんだろう?
何か悪い事した時に反省したことはあるけど。
私と向き合うって何?
今まで一度も自分というものについて考えたことがなかった。向き合う必要もなかったのだ。
いつも母親と相談して何事も決めてきた。それで何か問題があったわけではないし、押し付けられたという意識もない。
何も疑問を持たずにここまで生きてきた。
それの何が悪いのか?
優子は困惑していた。
社長の言っていた事を思い出していた。
自分の中の壁をぶち壊して本当の自分と一体化しなくてはいけない。本当の自分とは愛です。あなたの守護神です。しかし、本当の自分になるためには辛い過去にも向き合わなくてはなりません。
私には辛い過去はない。
でも、知らない事がある。
父親を知らないのだ。これは明らかな大きな事実だ。
優子は初めて声に出して言った。
「私は父親を知らない」
そして、かつて見た母親の引き攣ってこわばった顔を思い出した。
私は、あの時、母親の闇を見た。それが怖くてもう2度と父親について聞くことができなくなったのだ。
父を知るということは、母親の闇を暴くということだ。
私の知りたいこと、は、母にとってはどれ程大きなトラウマかわからない。
もしかしたら、私たちの関係まで壊れてしまうかもしれない。
でも、それを知らなければ本当の私へと続く扉は開かない。
優子の今までの歩みの中で経験したことのない、とてつもなく大きな壁にぶち当たった瞬間だった。