太田光のこういうのが好きだ
漫才とかラジオとかより、こういうのが好き。



あたしもサリンジャーが好きで、
フラニーとゾーイーは、今まで読んだ小説の中で一番好きだ!

何回か読んで、頭の中で反芻するうちに、
最初ちんぷんかんぷんだったストーリーが消化できたように
思います。
だから、自分の解釈と太田光の解釈が若干違うなあっていうのも
わかるようになってきた。

フラニーとゾーイー、ていうこの文庫は
2編に別れていて、
前編は妹フラニーとそのボーフレンド
後編は兄ゾーイーと、母親、フラニー
登場人物これだけで、
人が会話しているだけ、という物語。 以下ネタばれします

前編、神経過敏ぎみなフラニーが、
インチキやろうばかりの世の中に参って寝込んでしまう。

インチキていうのは、
体裁とかプライドとか奢りとか誇示とかランクとか権威とかいやらしさとか
バーバリーのコートとかアイビー・リーグとか、ボーイフレンドとか
そういったもの。

そんなんで頭がくらくらなって、倒れたフラニーは
実家で療養をする。

後編、
自宅のソファで横になって延々と眠ったり読書したりしている
妹のフラニーを、
社会生活に復帰させようと兄のゾーイーが説得を試みる。

世の中インチキばかりで
まともなもの、イノセントなるものや
世の中の真価を分かっているのは自分だけ(プラス、自殺した兄のシーモア)
だと言うかのようにフラニーは実家のソファで、
とあるキリスト教の本(シーモアの本)を読み耽り、
身体の芯から溢れる「祈り」の実践をする。

それを見たゾーイー

お前こそがインチキだ、と一蹴する。
お前こそが、お前の最も嫌うインチキの中でも最もたちの悪いモノだ、
と言って退ける。
神経過敏の妹は、そんなこと言われて半狂乱で泣きじゃくる。

ゾーイーは、自分とフラニーが幼い頃にシーモア達から受けた
禅、インド仏教、キリスト教等の宗教教育を通して、
(シーモアとは年がかなり離れている。)
妹がキリスト教の矛盾に噛み付いた事を覚えていて、
妹が、キリストの事を神として、一人の人間として、宗教として
よどみなく愛し信仰してはいない事を知っていた。

それなのに、
自分こそがイノセントで、世の中に傷つけられたと言わんばかりに
自宅に籠って、しかし家族に見える所でキリストへの帰依を示すフラニーに
ゾーイーは我慢ならなかった。
借り物の宗教で、インスタントな祈りを捧げて、
しかも人に見せつけるように

お前こそが、インチキなんだぞ、と
お兄さんは迷い無く言ってくれたのです。

会話がここまでたどり着くのに、
兄妹のもの凄いいがみ合いの会話のやりとりがあって、
自分のインチキさ暴かれることで精神が憔悴しきったフラニーを残して、
ゾーイーはその場を去る。

それでも、
ゾーイーは自宅の別室から、フラニーに電話をかけて、
妹に希望を与えようと努力するんです。ここが素敵。

太田光が興奮しながら説明してるけど、
小さい頃にこの兄弟が出ていた天才ちびっ子ラジオ番組に、
ゾーイーが出演した時のエピソードを、
憔悴しきったフラニーに、兄ゾーイーが電話越しに伝える

幼いゾーイーは、ラジオ番組は視聴者から見えないんだから、
そのために靴を磨いたり、めかしこむ事ないじゃないか!
と、シーモアに文句をたれる。
シーモアは、いやいや違うぞゾーイー、と。
違うぞ、誰かに見られるために、こういう綺麗な格好をするんじゃないんだ、と。
アメリカのどこかの州で、どこかのテラスのイスに腰掛けて、
太陽に当たりながらラジオを聞いている、どこかの太っちょのおばさまのために、
彼女のためだけに、お前は綺麗な格好をするべきなんだよ。
と、シーモアは幼いゾーイーに言って聞かせる。

このエピソードを、ゾーイーはフラニーに教えてやる。
そして最後、ゾーイーは言う
「いいか、その太っちょのおばさまこそ、キリストなんだよ。」
これを聞いたフラニーは、喜びに満ちて、救われる。

これで終わり、というお話。
それがフラニーとゾーイー。


全く、ちんぷんかんぷんで、最初、全く意味わからんのだけど
何回もこのくだりを反芻していて、私の解釈した所によると
そしてまた、太田光とは別の解釈なんだけど

まず、これはキリスト教の話では無い
全く。
(むしろフラニーゾーイーは、禅的思想を是とする態度が強い。
 シーモアが自殺する前に俳句を読んでいたりする。)

「ふとっちょのおばさま」は、ジーザスを指しているのではなく、
自分がhonestになる対象を指していると思う。
「キリスト」という宗教的なイコンに対して祈りを捧げるのではなくて、
「ふとっちょのおばさま」のために祈る。
ふとっちょのおばさまの為に、彼女が自分の事を見ていようが
見ていまいが、綺麗な格好をする。
自分が見られているか、自分に利益が帰ってくるか、そんなことに
執着するのは、インチキのすることだ。

日本のどこかの地方都市に住んでいる、一人暮らしのおばあちゃんのために
福祉を充実させたい。
環太平洋のどこかの小さな島に住んでいる、おじさんの家が海に沈まないように、
地球温暖化を食い止めたい。
もちろんそのおばあちゃんも、おじさんも、
自分の祈りがあなたにどんな利益をもたらしたか、
全く知る由もないんだけど。
祈りっていうのは、人の見ていない所で、
誰も知らないところするものなんだ。

それが、
「ふとっちょのおばさま」なんだ。
おばさまが、ジーザスの形状をしていなくても、
仏陀の形状をしていなくても、神ヤハヴェアッラーで無いとしても、
ふとっちょのおばさまに祈ることと神に祈ることと、
差別化を計る意味はあるのだろうか? 
全く、ふとっちょのおばさまとは同時に、キリストでもあり得るのだ。

私は、キリスト教でも仏教でもなく、
神様が居るかどうかちょっと信じきれないので、
ふとっちょのおばさまに為に祈る。
彼女の見ていない所で、彼女のためにhonestでありたいのだ。

誰かの見ている前では祈らない。
神様の見ている前では祈らない。
人を愛するとしたら、その人の見ていない所で、
どれほど自分がhonestで居られるか、どれほど自分の忠誠心を示せるか、
私に取ってはそれが一番大切なことだ。
ふとっちょのおばさまの知らない所で、
誇示などせずに、見返りを求めずに、
祈り、愛を示す、忠実であること。
その祈りは、声を大にして知らせる必要も無く、
誰に知られる必要もない。
祈りは、沈黙のうちに埋もれるべきだ。

これが、ふとっちょのおばさま、の真意だと 
私は解釈します。
太田光は、彼自信の自我の強さ、自意識との葛藤の歴史から、
「人間のくだらなさ」「人生の無意味さ」
「でもそれで良い、それが人間なんだ、という赦し」
この思想をもって、フラニーとゾーイーを解釈している。
次の動画で紹介される「タイタンの妖女」なんて、
その思想の最たる物だ。

まあそんなことで、一杯書いたけど

だから宗教って、イコンの塊すぎて、一歩間違えばshow offになってしまう。
首から十字架を下げたり、両手を顔の前で汲んだり、
手で十字を切ったりだな
信仰に形式やミサやは必要なのか。
そもそも、アッラーや、ムハンマド、キリスト、仏陀、
そいったイコンでさえ必要ないように思う。
これだから宗教は、平和や愛と同義語ではなくなってしまうの。
祈る、ふとっちょのおばさまで十分だ。
ふとっちょのおばさまでさえ、宗教的イコンになってしまうなら、
それすら要らない。
結局は、愛という言葉で全て片付くのだ。


知らなかった
今日、サリンジャーが亡くなったらしい。
これからも作品を一杯読み続ける。
サリンジャーが亡くなった。