八正道 | 億の細道

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1億円をようやく突破してきました。


果報は寝て待てというけれども、どうですかね?

今まで三回に分けて、無常・苦・無我の三法門について述べて参りましたが、この三つが仏道において一番大切なことがらと申せます。これらを味見程度にであれ体得できますと実生活においてメリットが色々とある、ということはご理解いただけたのではないかと思います。 

 しかしながら、それらを体得するためには、ごく普通の、ボーっとした認識能力では不可能なのです。自らの心や周囲の状況を、的確に、しっかりと見極める能力を身につけることが大切で、とりわけ座禅によって集中力や自覚力といった認識能力を研ぎすませて高めることが重要となって参ります。 

 無常・苦・無我を体得して自由自在に生きられるようになるためには、そこに辿り着くまでの道が必要なのです。その道が八つに分けて、「八正道=ハッショードー」としてまとめられています。 

 残念ながら「八正道」の意味は今まで、日本ではちゃんと理解されてこなかったのではないかと思われます。その主な原因はおそらく、仏道が初めて日本に輸入された聖徳太子の時代から今までずーっと、実際に心を変革するためのテクニックとしての仏道としてよりも、知識人や学問僧がお勉強する学問仏教としての性質が続いてきたせいではないかと、思われます。

 日本で出回っている仏教書のほとんどは、禅の実践をしたことのない学者さんが頭で解釈しているものですから、正直申して、何のことやら意味がよくわからなくなってしまいます。たとえばある教授が書いた本では、八正道の一つ「正念」を「正しい記憶」と説明されているのですが、修行のための最重要ツールの一つである「念」を「記憶」などと解釈しちまいますと、実践に役立たなくなってしまうのです。

 八正道を順番に直訳して、正しいものの見方、正しい思考法、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい・・・と並べて参りますと、おおかたの人の反応は、次のような風味のものではないでしょうか。

 「正しい見方だとか正しい思考とかが大切なのは分かるけれど、そんな当たり前のことをいまさら言われてもつまらないです」

 ええ、そうなのです。言葉づらだけみると、いかにも当たり前のことしか言われていないように感じられることでしょう。だからこそ仏道は、いろんな側面でずーっと誤解され続けているのです。

 ではこれから八正道が、「当たり前のツマラナイ」ものどころか、日々の暮らしを素敵に大変革できちゃうような驚異的なツールなのだー・・・ッ! な、なんだってーッ!ということを述べて参ることにいたします。

 「正見」から始まり「正定」に終わる八正道。「正見」とは無常・苦・無我を体得しつつ生きることを意味するように思えますので、申しますならゴールのようなものです。ゴールから始めるのもちょっとアレな感じがいたしますから、八つの順番をあえて逆転いたしまして、八つ目の「正定」から始めて参りましょう。
仏道入門一歩前
4-1:「正定」

 うるわしき集中、ブレない精神統一。あるいはその時々に、意識をどこに置いておくか自分でパッシィーッッッッン、と決められるための、心のコントロール力のお稽古と申してもよろしいでしょう。心を何かのターゲットに向かって「定」めてブレさせない能力ですから、「定力」と申すのです。



 集中力なんてイラナイ、と仰せになる御方は、おそらくいないのではないでしょうか。仕事をするにしても人と会話をするにしても遊ぶときにすら、集中力は重要なのですから。 

 だって、遊びですら、集中せずに何となーく遊んでたって、つまらないでせーう? 子供のころ、人生ゲームのようなボードゲームをしながら別のことを考えてそわそわして、ゲームをいいかげんにやっている子がいたりしようものなら、その子自身が楽しくないのみならずして、その場にいる全員がなんとなーく白けてつまらなくなってしまう、そんな壊滅的状況を何度か味わった記憶があります。 

 時として、私自身が、そういう子になって周囲を興ざめさせたことだって、何度もあったように記憶するのです。なにせ昔はよく、「しこり」と言われ叱られたものでした。「しこり」とは奈良弁で「落ち着きがなく騒がしい」という意味を持つ単語だったように記憶いたします。 

 さて禅のお稽古をして集中力さえ高めて参りましたら、遊びでありましょうと仕事でありましょうと、どんなことを長時間やりましても、ほとんどストレスを感じずに楽しんで乗りこなすことができるようになって参ります。 

 と申しますのは、仕事をしながら、何故ストレスが溜まるのかと申しますと、それは単純なことなのです。仕事をしながら、なおかつ仕事そのものに集中せず、ふと意識をフラッと浮気させて仕事そのものに必要のないことを、頭で考えるからです。 

 「仕事が終わったら何をしようか」「隣のデスクの人の目つきが気に食わない」「この職場は冷房がききすぎなんじゃないだろうか」「明日は嫌な目にあわなければ良いのだけれど」 「白桃の種が割れて中にアーモンドみたいなナッツが入っていたけど、食べても平気なのかなあ。(これは先ほど実際に起きた出来事です。玄米御飯に炊き込んで、食してみませーう。)」等々。 

 「考え事」へと心が逃げます瞬間、確実に、目の前の現実に向けられるエネルギーは減少いたします。「考え事」は現実ではなく、脳内の情報に過ぎませんから、脳内情報という名の雑念に意識を浮気させますと、そうしている間は、目の前の為すべきことがおろそかになるのです。 

 そして脳内の雑念へと逃げてしまいますと、目の前の現実をちゃんと感じ取ることができなくなりますので、確実に、逃げたぶんだけ、「今やっていること」がつまらなくなり、ストレスを感じます。もっと厳密に申しますなら、本当は、一瞬だけ心が「つまらないな」とストレスを感じているからこそ、雑念に逃げるという順序なのですけれども。 

 もし仕事を楽しみながらやっていたといたしましても、心を雑念へと浮気させました分だけ、その楽しみは減少するので損をしていると申せましょう。それどころかもしも「この仕事はつまらない」などと頭で考えてしまおうものなら、心が強烈なストレスを受けるのみならずして、目の前の仕事内容から意識が逸れて、逸れた意識は「つまらない」という脳内情報へと逃げ込んでしまいます。 

 このように意識が脳内情報へと逃げ込んでしまうのが最悪のことでありまして、そうなりますと、目の前にある作業に打ち込む能力は、確実に半減いたします。「つまらない」と脳内に逃げ込んでは「いやいや、やらねば」と外に向かい、しかしまた再び「つまらない」と逃げ込む、といったように行ったり来たりを繰り返しているようでは、エネルギーの半分が脳内ストーリーに取られてしまいますため、実際に仕事に使えているエネルギーは残りの半分しかないのです。 

 ですから、意識がさまよって雑念へと浮気してゆかないように、「今やるべきこと」のみにターゲットを決めて心を集約して参りますことが、いかに重要かお分かりいただけますでしょう。 

 もしも心が浮気をして考え事に逃げてしまったのに気付きましたら、すかさずその考え事から心を引きはがして、強引にでも目の前の作業内容に心を引き戻してあげるとよろしいのです。この時、考え事から引きはがして、再びターゲットを作業内容に向けて定め直しますのも、「定力」が高いほどうまくいきます。 

 どんな御方であれ、一瞬のうちに何千何万といった大量のことがらを見て聞いて触れて考えているのですけれども、そうやって膨大な対象を行ったり来たりしている意識ですから、本来、ものすごいエネルギーを孕んでいるのです。 

 それを大量のことがらへと分散してしまわないで、「これ」と「あれ」と「これ」だけ、といった具合にしぼりこんで他の情報をキャッチしないようにいたしますと、一つ一つの情報に対して向けられるエネルギーが劇的に、本当にびっくりするくらいに高まるのを体験できますでしょう。 

 目・耳・鼻・舌・身体・思考のうちですと、とりわけ思考が、エネルギーを無駄遣いするのです。ですから、その場面に不要な思考に逃げてはなりません。そのためには、禅のテクニックによって思考の情報処理をスッパーッッンと、ストップしてしまいますのが有効です。 

 「考えない」とは申しましても、考えるのが必要な時には、考えることは必要です。ただしその場合もあくまで、考えることにのみ集中してスパッと的確な決断をくだすことが大切なのでありまして、考えながら別の雑念、たとえば周りの音に意識をただよわせたり昨日あった嫌なことを想い出したりしていましたら、それらの雑念のせいで判断がすこぶる鈍ってしまうのです。

 ですから、作業をするにせよ、考えるにせよ、何かをするときは、その作業内容と必要な情報のみに意識のターゲットをしぼって、他の雑念に心が彷徨わないようにすることが必要なのです。これができて参りますと、仕事効率や判断力、あるいは遊びますときにすら、遊びのクォリティが飛躍的に高まって参ります。 

 そして、「考え事」という脳内自慰に逃げ込まずに、「今やっていること」とぴったり心を一体化させるくらいに集中してしまいましたら、たとえどんなつまらなく見えることをやっていたとしても、時間を忘れるくらいの充実感が得られるのですから、これをハッピーのための基礎力と申さずして何と呼べましょうか。 

 このようにして、心のターゲットを定めるための基礎力、たいてい座禅ではまずこれを高めることから始めます。そして例えて申しますなら、座禅中に「10」ほどこれを身につけましたら、日常生活でも自然と「1」くらいは身に付くのです。座禅中に「30」まで高めましたら、日常生活でも自然と「3」くらいは身に付くのです。 "Wow! zazen should be very usefule!"とアメリカ人なみに目を見開いて、ちょっと役に立ちそうだと実感がわいてきましたならしめたものです。
4-2:「正念」



 観察力は、訓練すれば成長させることができます。その訓練法が、「正念」。

 念とは、ただイシキが対象について気づいてる状態のこと。たとえば携帯電話の音がなります。「あッ、音」と、ほんの一瞬だけ、まずは音に対して注意が向きます、よね。

 この「あッ」と、注意が向いているだけで思考が始まる前の状態のことを、念と呼びます。まだ、「これは携帯電話の音」と判断を働かせてしまう一瞬前の、ただ「あッ、音」という状態。

 ただ、ふつう、念は、一瞬で消え去ってしまう儚いものなのです。と申しますのは通常の意識状態では、聞こえた音について瞬時に、ゴタゴタとした情報処理が始まってしまうからです。

 「これは携帯電話の着信音だ、ということは誰かからのメッセージがきてる、あの人からかもしれない、嬉しいな、でも今は仕事中なんだけど、んー、携帯電話に手をのばそうかどうしようかな」といたように、瞬時に「ただの音」ではなくて、どういう音で、それが自分にとってどんなもので、それに対して何をしよう、といったような情報処理がはじまりますゆえ、純粋な「あッ」という注意はすぐに消滅してしまうのです。

 念のレッスンでは、大脳新皮質が情報処理を始めるのをストップさせて、ただ純粋に「あッ」と気づいているだけでカンガエゴトをしない状態を、できるだけ長引かせようとつとめます。

 音なら音、味なら味、見えるものなら見えるもの、肌に触れるものなら触れるもの。それらについてアレコレと考え事ずに、ただ音を純粋に味わい、味を純粋に味わい、見えるものを純粋に味わい、触れるものを純粋に味わっているだけの状態では、思考に邪魔されない、非常に高度な観察力が働くようになります。

 こういった訓練をすればするほど、普段からアレコレと考えることなしに、もの自体を瞬時に、的確にとらえる観察力が身についてまいります。

 大切なポイントは、「今この瞬間」に実際に起こっている目耳鼻口皮膚の感覚に対して意識を向け、その感覚を強くロックオン、しっかり捕捉して感じ取ってあげることです。

 「今、ここ、この瞬間」に実際生じている感覚をしっかりと観察して感じ取ってあげることができればできるほど、ごちゃごちゃした思考は、働かなくなり、意識が冴え渡って参ります。

 あれこれとカンガエゴトをしないこと、です。

 念の力は、カンガエゴトをすればするほど弱まるのですから。カンガエゴトがはじまると、観察力は消え失せるのです。

 なぜなら、考え事をすると人の意識は脳内で形作られる思考内容のほうに夢中になっちまいますゆえ、「いまこの瞬間ここに確かにある」映像や音や味に対して、鈍感になるからであります。

 「いまこの瞬間」から離れて脳内イメージに逃げ込んでしまうと、注意力も観察力も衰えるとともに、現実に目の前にあるものを楽しむ能力まで衰えてしまうのです。

 つまり「念」の注意力をきえたえればきたえるほど、五感に訪れてくる感覚を、ありのままに享受、楽しむ能力もまた、はぐくまれるのであります。よく悟りについて誤解されがちなのですけれども、悟りとは、何にも楽しまなくなるような境地ではありませぬ。

 むしろ、五感にやってくるあらゆる感覚を、普通の百倍も千倍も、はっきりと感じ取りながら楽しんで享受することができるのです。よけいな概念や思考に邪魔されることなく、ただありのままに受け取るからこそ、はっきりと、クリアに刺激を実感することができる次第です。

 余談ながら仏道プロパーの文脈で申しますなら、「定」=集中力や「念」=注意力をきたえればきたえるほど、日常の中のごくごくアリキタリなシィンの中にも必ず、さまざまな「無常」、「苦」、「無我」の三相が隠れているのが、より素早く、より厳密に見えるようになって参りますゆえ、それによって一気に悟りへの道を進むことができるようにもなるのであります。