今年の教会半日修養会は「神の言葉が語られ、聞かれる教会」をそのまま修養会の主題として開かれました。

従来からの教会の合言葉「礼拝者の群れを築こう」の「群れ」とは何か?から佐藤先生は始められ、「ただ単に物理的に場所を共有しているに過ぎないのではそれは『烏合の衆』であって、群れではない。群れとは1人の羊飼いに養われている羊の集団をさしている=羊飼いの言葉を聞き分ける羊でなければ群れにはならないし、なれない」と云う、「きつい一言」がありました。次いで、「聖書は神が一人ひとりに向かって語りかけて下さる、その人にだけの言葉」であって、「聖書そのものが語りかけ」なのだ、とルツ記や申命記を例に出しながら「名を呼ぶ=贖い」であり、キリスト教は「贖いの宗教」であるとも示唆されました。

なるほど、他の書物を読むときと聖書を読むときの読み方は確かに違っているし、聖書はイエスの死を語る福音書をはじめ、神が私どもを贖い取って下さったことばかり書いてある。このことから、自身に対する語りかけと言葉として聖書を読んでいる自分を再発見し、つまり私は既に神に呼ばれているのだ、と今更ながらに気づかされ、神様の言葉を聞き続けることの大切さと、贖いとられた自分の幸いを痛感したひと時となりました。