
復活祭の礼拝を迎えました。第一コリントを読み終えて、先週の棕櫚の主日からルカ福音書に入りました。先週は23章の十字架の物語を読みました。私たちは十字架と復活からこの福音書に入ることになったのです。その十字架の光景をルカは、こう描いておりました。
「一人は右に、一人は左に。」
これは真ん中に主イエスがおられることを暗示する語り方です。これと同じ構図で、ルカは夕暮れ近いエマオへの道を描きます。一人は右に、一人は左に。主イエスの弟子であった彼らは今、途方に暮れてエルサレムを去り、エマオという村に向かっている。この1週間の間にエルサレムで起こった出来事を論じ合いながら。すると、そこへ復活の主イエスが近寄って、一緒に歩み始められた。しかし、彼らはそれが主イエスであるとは分からないのです。悲しみに目が閉ざされていたからです。二人は嘆き悲しみ、途方に暮れて歩んでいる。なぜか? 望みをかけていた主イエスが殺されたからでしょうか? もちろん、それもあります。しかし、なんと彼らは主イエスが復活されたことまで暗い顔で論じ合っています。私は思うのですが、案外、主イエスの復活こそが彼らを本当の意味で途方に暮れさせていたのではないでしょうか? 彼らはその心の戸惑いを、悲しみを、嘆きを、この見知らぬ同伴者に話し始めます。一歩一歩歩みながら。すると、今まで黙って聞いていたこの同伴者が言うのです。
「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
こう言って、この同伴者は聖書全体を説き明かしてくれたのです。二人は目指す村に着いたが、同伴者はさらに先へと行こうとしている。彼らは思わず引き止める。
「一緒に泊まってください。私たちと一緒にいてください。」
家に入り、食卓に着くと、この同伴者が主人の席に着いた。そして食卓と主としてパンを裂いて祈りをささげ、彼らに手渡された。すると、彼らの目が開け、主イエスだと分かった、その瞬間、主イエスの姿は見えなくなった。見えなくなったけれど、見える以上のものがこの食卓で与えられたのです。彼らは互いに言い合います。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」
深く、静かに、しかし、確実に燃えている心。主の復活が出来事から信仰へと昇華された瞬間です。この二人がたどったのと同じ道を今、私たちもたどっています。一歩一歩を主イエスが共に歩んでくださり、御言葉を説き明かしてくださり、私たちの心を静かに燃やし続けてくださる。主の復活の恵みとは、案外、そういう日常の一歩一歩の中にあるのではないでしょうか。イースター、おめでとうございます。今週も復活の主が共に歩んでくださいます。祝福を祈ります。
(3月23日礼拝説教より)