マヌエル・プイグ、野谷文昭訳 『蜘蛛女のキス』
を読んだ。
未成年の猥褻幇助罪によって懲役八年を宣告されたモリーナ。
政治犯のバレンティン。
ブエノスアイレスの刑務所で同室となった二人は、映画について語り合いながら交流を深め・・・。
マヌエル・プイグはアルゼンチンの小説家なのだけれども、
まずはじめに、
ラテンアメリカの小説である、ということに言及する解説者は多い。
そのあらましはだいたい、ラテンアメリカ文学は土着の文化に根付いているものが多いが、
『蜘蛛女のキス』は、どの時代のどの場所でも通用する普遍的なストーリーであるという帰結ね。あるいは、場所や時代、という軸から隔離されたストーリーであるという見解よ。
この作品は単純によく売れた、広く愛されるベストセラーなのだけれども、
ある特定の層にとくに深く感心を持たれている作品でもあるということでも有名ね。
ジェンダー、クィア、セクシュアリティ。
これらの文脈で、問題を提起している作品。
そんなわけで、わたしも前々からこの作品を知っていた、いずれは読まなければいけないと思っていたのだけれど、なかなか手を出せなかった。
まずこのタイトルが、なんとはなしに気に入らない。
おおまかなストーリーのあらすじも、
物語の動きがなさそうで、好ましくなかった。
この小説にはいくつか特徴として、
地の文がほとんどなくって、ストーリーはモリーナとバレンティンの会話で成り立っている。
説明ってのは、口頭の、対話を通してのもので、
はっきりとした第三者的な解説はラスト数ページのみに限定される。
これがこの物語の鍵になっていて、
モリーナとバレンティンの主観、感情含みの状況把握しかできない。
それもそのはず。
檻のなかに閉じ込められた二人は、外部との世界とは完全に断絶されてしまっている、密室的な物語なのよね。
最初、この作品は、ものすごくとっつきにくかった。
導入の段階で、えんえん数ページ黒豹女の映画の話をしているんだから、面食らう。
この作品には、実在の映画が6本語られるのだけれど、
わたしはどの作品もまったく知らないわ。
冒頭の作品、黒豹女は、「キャットピープル」という作品で、有名みたいね。
わたしは存じ上げないわ。
6本の映画のなかで、この黒豹女の話、ってのが物語の重要なキーワードになっていて、
これさえ読んでおけば、あとの作品語りのパートはななめ読みしておいてもいいくらいよ。
タイトルの意味は、物語の中盤まで明らかにならないのだけれど、
読み進めていくと、勿論、誰が蜘蛛女なのか、わかるわよね。
勿論、モリーナよ。
このモリーナが、とてもクィアな人物なのよね。
モリーナは同性愛者とかGIDとか、さまざまな捉えられ方をするのだけれど、
わたしは、モリーナを何と呼べばいいか、戸惑ってしまう。
モリーナは女のように振る舞って、男性を愛する、男性とセックスをする、いわゆるオネエ言葉で話す男性なのだけれど、
ゲイでもGIDでもなく、あるいはそのどちらでもある、クィアな精神をドラァグしているような人物なのよ。
この作品を、単純に、同性愛の話、と言いきってしまうのは少し乱暴よね。
バレンティンは26歳、モリーナは37歳、ということもあって同世代ではないわけよ。
モリーナはクイアで甘く見られがちだけれども、バレンティンよりは11歳上で、世間知も経験値もうえなわけ。
そういうこともあって、モリーナは、母のような優しさで、薬を盛られて苦しむバレンティンを包み込む。
無口で、感じやすく、皮肉屋なバレンティンは、
感情的に怒ったり、当たり散らすようなことをするのだけれど、
モリーナは、彼を甲斐甲斐しく、世話をする。
モリーナは、絶対に、バレンティンを責めない。
「ゆるしてくれ」というバレンティンに、「ゆるすことなんてひとつもないわ」というモリーナ。
こういう限定的なシチュエーションで、
モリーナに気を許したバレンティンは、モリーナとセックスをするのだけれど、
モリーナはともかくとして、おそらくバレンティンはモリーナを愛していない。
でも、それが悪だというわけでもなく、
密室的な空間に二人だけでいれば、お互いに親しさを感じていくのはあり得ることだし、
結び付きの形は人それぞれだから、読んでいて何のしこりもない。
誰だって、
こんな、緊張感のある、密室的な空間に二人きりで置かれたら、
この人物と!友情以上の関係を築くことはあり得ない、と言い切ることはできないだろう。
関係を深める。
映画、という素材で、お互いの知性に迫っていくのだから、
即物的じゃなくって、ロマンティシズムよね。(即物的なロマンティシズムも、勿論ステキだけれどね)
長編ではあるけれども、
最初の黒豹女さえクリアすれば、すぐに読めてしまうわね。
騙し合い、にはならない。
愛してはいなくとも、少なくとも、気に入りの相手とは!