円地文子 『女坂』
を読んだ。
明治初期、福島の官吏・白川行友の妻である倫(とも)の、悲劇と怨念の生涯。
素晴らしい!これぞまさに文学というべきものだわ。
研ぎ澄まされた文章と、静かに流れる女の情念。
行友は女嗜しで、妾をもつことになるのだけれど、
その妾を、妻である倫に見繕うように行って、上京させるのよねえ。
その悲嘆。この時、倫はまだ行友を愛していて、嫉妬していたのだけれど、
次第に、それが愛ではないということが分かるようになるのよねえ。
行友が、妾の須賀を女中として囲うようになったとき、倫はまだ30歳くらいなのよねえ。
女盛りの歳よねえ。
でも、この頃には、きびきびとした性格が顔に顕れているのか、歳よりもずいぶんと落ち着いた印象なのよね。
絶世の美人の須賀をもらうようになってからは、
夫婦としての関係は冷え切ってしまって、
行友と倫を繋ぐのは、「家」を維持する信頼なのよね。
倫は行友に誰よりも信頼されているのだけれど、その精神の厳しさと強さは、行友の男としての矜持をくらませてしまう。
だから、行友は「女」としての倫を愛せない。
行友は、須賀のほかに、すっきりさっぱりとした性格の美人の由美を妾にするのよね。
あと、息子の後妻である美夜にもね。
行友はわかりやすい男で、女に「柔らかさ」を求めているのよねえ。
花とか見てキャッキャッキャッとはしゃいでいるような女が好きなのよ。
しっかりとしている女を厭うのよねえ。
だから、行友にとっては倫は甘えられる母親みたいなもので、でも母親に向けるほど親密な感情を抱いていないのよ。
細君と妾を同じ低に置くなんて、どうやったって苦しいわよ。
ここらへんの浅はかで考えが及ばないところが、厭ねえ。
倫は、まっとうに愛されることよりも、「家」をまもることに生涯を捧げたのよねえ。
年老いた倫が、思い通りにいかなくなった重い体で、坂を登る場面があるでしょう。
物語で、いっそう際立っている場面だわ。素晴らしい!ふるえるほど、情緒揺さぶられる。
この場面で、倫は、自分の人生を振り返るでしょう。
「私の生きて来たすべては空しい甲斐のないものだったのだろうか。いやいやそうではないと倫は強く首を振る。私の世界は冥い中を手探ってゆくように覚束ない。そうして、探ってゆく手に触れるのは色のない固い冷たいものばかり、いつ果てるともない闇がつづいている。でもその果てには必ずトンネルを突き抜けたあとのような明るい世界が待っている……待っていなければ理にあわないのだ……絶望してはいけない、歩かなければいけない。登らなければ、登りつづけなければ、決して坂の上へは出られないのだ……」(新潮文庫、p.209)
ここで初めて、倫は、自分の人生を顧みて直載に語るのだけれど、見事だわ。
最期、行友に宛てた言葉は、
倫をまるでそうするのが相応しいかのように扱い続けた行友への怨念と深い自嘲なのかしらん。
まさに傑作に呼ぶとふさわしい作品ね。
わたしはまだ若輩だが、年齢を重ねて、再読したらまた違う味があるのかしらん。
すべて貴方の、お好きなように。