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高野悦子 『二十歳の原点』


を読んだ。


二十歳で自死をするまでの、全共闘世代の女子大生の日記。


ある時代のベストセラーよねえ。

文学ではなく、個人の日記だから、内面の吐露なわけよね。


何かを成し遂げなければいけない!という強烈な問題意識と、瑞々しい感性。


なんというか、

明確な方向性とか、思想、の前に、何かをせねばならない!という問題意識が先行しているんだよね。


通常、この問題に、このように取り組む、っていう「問題設定」と、「方法」を考えるよね。


だけど、時代的な感覚か、

何かに取り組まなければならない!の「何か」の部分が弱くて、「なければいけない!」が強すぎるんだよね。

「どのように」は、棄却しなければならない!っていう拒絶ばかりで、論理的な解決方法を考えない。

だから、一貫性がなくて、散漫としてるのよねえ。


関心や興味が、あっちこっちいっちゃうのよね。

取り組もう!取り組まなければならない!と考えてはいるんだけれど、集中力がないのか、

ひとつの問題と徹底的に向き合うわけじゃないのよね。


内側からくる闘争の火に、追い立てられている。


今風の感覚で言うと、こういう、

一貫性のなさ、論理の飛躍、アレもコレもっていう不定な方向性、強烈な自意識、

は、痛々しいと見做されがちよね。


情熱は、方向性を定めて、冷静で緻密な計画のもと努力して遂行しなければ、

ただの空回りになってしまうものだしね。


洗練がないし、時代の体現者っていうには、文筆の才がない気がする。





道浦母都子 『無援の抒情』


を読む。


全共闘を生きた、女性の、和歌。


圧迫された状況の中で見受けられる、女性的なのびやかさ。


歌がつらなっていて、物語が読みとれるのだけれど、

着眼点が重っ苦しくなくて、ほどよく軽快。それでいて、胸がざわざわする。


感情そのまま、ではなく、歌にするってのは、洗練しているし、

淋しさや情緒が、すうっと浸透してくるね。









河野多惠子 「劇場」   河野多惠子全集 第一巻


を読んだ。


劇場で出会った、せむし男と美女。観察者のマゾヒズム。


二人に副う。「副う」って素敵ね。甘美。

「ふたりにいいつけられたり、叱りとばされたりして買物しながら従ってゆく。そうありたい。ぜひそれをやってみなければ――」(p.40)


っていう趣向をせむし男と美女は読みとるのだし、

結末では、愉しい関係のはじまりはじまり。


じんわりと、狙いが浮かび上がってくる様は、さすがよ。 どきどきしちゃう。




















冷え冷えとした心持は、あの人の視線を受けて、ごうごうとした炎に包まれるのよ。