桐山襲 『風のクロニクル』
を読んだ。
内ゲバで≪語れない石≫となった友人に宛てた四通の書簡と、その中に記された私小説的な劇の脚本。
桐山襲といえば、全共闘運動とは何であったかを主題とした作家よね。
ちなみに、「襲」という名前は、「かさね」と読む、らしいね。
全共闘というと、今じゃあ、ノスタルジーの象徴や負の歴史っていうイメージで、あまり語られないのよね。
その時代の文学作品も、文学史の中での位置づけが微妙よねえ。
全共闘世代の作品を語るキーワードとして、
みずみずしい感性、だとか、アジテーション、みたいなものがあるわよね。
世界の激動に自分自身はどのように向き合わなければならないのか、どのように受け止めなければならないのか、という強い意識。
自己の内面をどこまでも掘り下げていく強い自意識。
そういう内側から身を焦がすような真剣さ、情熱が、目に見える暴力となって、大学ひいてはあらゆる権力を解体しようとしたのよね。
88年生まれで、23歳のわたしからすると、
論理を語っておきながら、暴力でカタをつけるってのは、結局、言葉なんて建前だと思っているからでしょう?
という冷ややかな意見を持ってしまうわけよね。
これは世代的な感覚じゃなくて、私的な感覚かもしれないけれどね。
わたしがこの時代を生きていたら、全共闘運動を抑え込む側だったのかしらん。
<暴力学生>を追放しようと?それは分からぬ。
やっぱり、どの時代を生きるか、っていうのは、人間形成において重要でしょうよ。
この時代を生きていたら、まったく別の人間?にはならないだろうが、問題意識や関心が今とは別のところにあっただろうね。
時代といえば、全共闘世代よりちょっと後になるけれど、
ウーマンリブとか、フェミニズムが極めてラディカルだった時代を経験しなくて良かった、と思うわ。
自分が女である、ということを、冷ややかな気持ちで受けとめていきたいから。
わたし、フェミニズムを解体したいよ。ほどいてゆきたい。
時代はもう、そういうステージでしょう?
少し脱線したわね。
全共闘運動ね、きっと傍観者でいることはできなかったでしょうよ。
肝心の『風のクロニクル』の内容に触れていくけれど、
これは二つの闘争が書簡のなかで交錯していくのよねえ。
この国そのものを拒否した者たちの闘争。
結果はどちらも敗北に終わったけれども、そこから先にNが試みようとする計画の推測。
この推測はちょっと常軌を逸しているのだけれども、見せつけられる狂気じみた熱意よね。
学生時代のうねり、についての捉え方が印象的ね。
青春、のようにやり直しのきかないものではなくて、
高揚期、つまり退潮期、冬の時代、の後に、また高揚期がめぐってくるという考え方。
時代、ってやっぱり、重要なファクターよねえ。
桐山襲 『未葬の時』
を読んだ。
火葬場でのやりとり。骨となる、その鮮烈さ。
あまりにも潔く骨になってしまうのだから、どのように受けとめたらよいか、わからなくなってしまうのよねえ。
あなたが話せば、わたしがわらう。それだけで充分でしょう。ほかに何か必要あって?