松浦理英子×笙野頼子 『おカルトお毒味定食』
を読んだ。
対談ね。
この二人のちぐはぐな対談の、まったく建設的でない感じ。
笙野頼子は、感性で物を語るタイプだからか、話があっちこっちいってしまうし、
想像力が豊かだからか、話の飛躍がすさまじいのよねえ。
思いつくままに、話しているふう。
それに対して、松浦理英子は、理知的で斜にかまえているようなところのある人だから、
話始める前に、あらかたの目安をつけてから、語ってゆくのよねえ。
わたしは松浦理英子のファンだけれど、笙野頼子のことはよく知らないのよねえ。
だからか、ちょっと笙野さんに対して消極的な感想を持ってしまうのよ。
たとえば、フェミニズムについてのトピックがあるんだけれども、
笙野さんはクリステヴァを引き合いに出すのね。
べつにそれはいいんだけれども、クリステヴァの本じゃなくて、クリステヴァについて書いてある本を読んで、という前置きなのね。
おいおい、と。クリステヴァ語りたいなら、クリステヴァについて書いてある本じゃなくて、クリステヴァが書いた論文読まないと!って思ってしまうわ。
そこまでする必要がないと思うのであれば、わざわざクリステヴァの名前出さなくていいじゃない。
そこらへんの軽率さが、知性を感じさせないわ。
この対談は、92年と94年におこなわれたものを収録しているから、
時代的に、ボーヴォワールからのクリステヴァで止まってしまっているのよねえ。
日本で『ジェンダー・トラブル』が刊行されたのが1999年だから、まだバトラーまで到達しないのよね。
松浦理英子がセクシュアリティを主題とし続けるのは、
何かわかりたくて読む人とか、すぐに何かわかったつもりになるような人に肩透かしを喰わせたいという気持ちから、
というのは、バトラーにも通じてる気がするよねえ。
松浦理英子が、バトラーをどのように受け止めているのか、興味あるわ。
それはさておき、
松浦理英子の容姿について、笙野頼子は頻繁に言及するのよね。
確かに。これは意外かもしれないんだけれど、松浦理英子は美人なんだよね。
それも、可憐なタイプの美人なの。
それでね、松浦理英子はこう言うのよ。
「わたしはこの通俗的な見かけにより、世間をたばかっているんですよ」ってね。
松浦理英子の、理屈っぽさと繊細さと、洞察力。
これだけの才能がありながら、デビュー当時は黙殺された松浦理英子。時代だわ。
松浦理英子をフェミニズムとか、セクシュアリティの文脈で読み解こう、あるいは敬遠してしまうのは勿体ないよね。
まあ、話がまず間違いなく面白いし、語彙も豊富よねえ。鋭い洞察力と感性。知性。
純文学やってる当代の作家だと、まず間違いなくトップレベルだと思うけれどね。
笙野頼子については、おざなりになってしまったわ。こまったわ。
あけましておめでとう!