モニック・ウィティッグ、小佐井伸二訳 『女ゲリラたち』(白水社、1973年)
を読んだ。
ふだん、ここで綴るのは、プライヴェートな領域に属することだけ、と意識しているのよね。
だから、大学の授業で扱った文献だとか、自分のパブリックな領域における研究については、あまり綴らない。
あくまで趣味で読んだもの、観たものを備忘録として書きとめて置く。 あとは、琴線に触れたこと、もね。
『女ゲリラたち』のことをここに留めておくのは、そういう意味で、微妙なラインなのだけれど、
小説という体を成しているから、ということでセーフでしょう。
さて、モニク・ウィティッグといえば、フェミニストよねえ。それも、きわめてラディカルで挑発的なフェミニストよ。
『女ゲリラたち』は、今まで読んだあらゆる種類の文献のなかでも、異彩をはなつ過激さと攻撃性!
フェミニズムとか、セクシュアリティの文献ってのは、
そもそも性的にかなり過激な観念をもつものが多いのだよねえ。
性器についての考察や、観念的な意味付けってのが、ほとんど盲執っていってもいいくらい執拗なのよ。
『女ゲリラたち』は、単純な文学作品ではなくって、前衛的な企てが見られるのね。
断片的に、女ゲリラたちのことが語られ、その語られるエピソードがいちいち過激で比喩的なものばかり。
ピースとしての一貫性、繰り返したいテーマは、「フェミニズムの闘争」と捉えてもいいと思うけれど、
継続的なストーリーがないので、文学的な面白みは皆無なのよねえ。
『女ゲリラたち』のなかで、女たちは字句通り、戦うのよねえ。
原始的で、野蛮といってもいいほどのやり方で、彼女たちから言葉を奪ってきたものたちを打倒する。
隠されているのはセクシュアリティではなく、怒りなのである。ってジュディス・バトラーか!卒論モードに移行するとこだったわよ。
ところどころサークル(円)のイラストが挿しこまれるのだけれど、
円とか円周とか輪とかOとか零とか球体は、女性器の象徴で、すなわち女性の象徴なのよね。
循環するイメージ。生命とか、自然とかと密接に関連付いたイメージ。
こういう観念的な意味付けが行き過ぎている、とか、ばかばかしいもの、
あるいはどこか異様で間違ったけがらわしい物の見方、だと思ったり、思わなかったり、するわけよ。
『女ゲリラたち』はそういう観念的な捉え方が顕著で、どこまでもラディカルで過激。
中盤以降、女たち、の集団は、大がかりな戦争をしかけるのよねえ。
女たちの言葉を奪った者たちに対してね。
言葉の主人の権利は、彼女たちが打倒するものたちが持っているもので、女たちはその言葉に支配され隷属するしかなかったということよね。
女には言葉がない、っていうのは、発言権がないとかっていう単純な意味じゃなくて、
物を考えるさい、話すさいに使用する言葉、によって支配される、という観念的な問題よ。
彼女たちが打倒すべき存在は、言葉の所有者であり、主人であり、言葉の権威を笠に着て、
彼女たちを支配し、牢にぶちこみ、隷属させる。
女ゲリラたちのほとばしる怒りはすさまじく、常軌を逸している。ほとんど、狂っている。
さいごね、彼女たちは勝利するのよ。
でもね、ほんとうに彼女たちは勝利したのだろうかね。
暴力でねじ伏せるというやり方は、彼女たちがもっとも忌み嫌うやり方ではなかったかしら。
論理性が欠如したやり方では、またいずれ、ひっくり返されてしまうものでしょう。
彼女たちを支配するヘゲモニーを打倒したところで、彼らの言葉でしか語ることができないという現状では、誰にも打ち勝ってなどいない。
女たちの、自らの言葉での語りを確立する前に、野蛮な闘争に挑んでしまったのはよろしくないわよ。
暴力に頼る。物質的な動きに身を任せるのは、結局、
言葉なんて、理屈なんて、建前だと思っているからではないの。
はげしさ、は、安らぎへ向けて終息していけるのかしらん。 きっとだめよ。むり、なんだわ。