【2023年 京大の古文(文系)】大問三の現代語訳

 

 冬もだんだん深くなってしまったので、暮れ行く空模様がさびしく、雪もちらちらと散り落ちたが、そうこうするうちに、日もすでに暮れ終えて、そのうえ「うばたまの(=「闇」の枕詞)闇」までも、たいそう不気味だ。こうして夜が更けていくままに、夜の寒さが身にしみわたり、少しの間も寝られずに、丑三つ時あたりになったところ、鐘の音も聞こえず、鶏の鳴き声もせず、どこまでも静かになるように思われたが、いつ明けるともなく、窓が白んでくるころに、家に置いてある召使いの子どもを呼び起こして、寝室の戸をあけさせると、夜の間に雪がたいそう風流に降り積もって、庭の草木も花が咲き、にわかに春が来るような心地がして、四方の山の稜線もみな真っ白になって、人間世界が、まるで天上の白玉京かと自然と間違えてしまうちょうどそんな折に、近くの池の水鳥がそれぞれに声をあげて鳴くのも、池から近いので聞こえる。さぞかし波に浮かんで寝るのは寒いだろうと、そのこともまたしみじみとした趣きを誘い、「それにしても、風流を解する友があればなあと、人に会いたく思っていたちょうどそのとき」、いつもたがいのもとを行き来する人のところから、手紙を持ってきた。急いで開いてみると、「すばらしい雪でございます。どのようにご覧になっているでしょう。そしてまた、この雪の中でのあなたのお暮しも、気がかりに思っております」と書いていたのに関連して、あの兼好が、雪のたいそう風流に降った明け方、人のもとへ伝えるべきことがあって手紙を送った際に、雪のことを何とも言わなかったことに、(手紙を送った相手が)この雪をどのように見ると一筆書かないことを、残念なことだと言って寄越したことをふと思い出して、「これはあちらからこのように気をつけて言って来たのを、こちらから返事がなければ、悲しく思うだろう」と思うままに、使いの者をしばし待たせて返事を書いて、終わりに、

 空に降る雪は 梢に咲く花であろうか 散っているのか咲いているのかと 間違えてしまった

と書いて、「ところで、今日はまったくさびしく暮らしております。気の合う者同士、さそいあってお越しくださいね。それこそ本当のお心づかいと思うだろう」と、使いの者に伝えた。こうして、やや日が高くなるころになって、門をたたく音がした。人に開けさせると、あの手紙をよこした人が、いつもの面々をともなって来たのであった。形式通りのおもてなしをして、老人(=私)はうれしく、寒さを忘れてひざを進め、たがいに語り合ったが、酒を温めて出したところ、来客もみな酔って行き、俗事を忘れた風流談義がたいそう心地よく見えた。老人は、

 もてなす心だけは、こゆるぎの磯を急いで歩くように、もてなしの準備に奔走することに劣るだろうか、あなた(いや、おとらない)

「私は、老齢で足腰が弱っているので、あなたのために酒肴を求めて歩くことはかないませんが、心だけはそれにも劣ることは決してないでしょう」

と、冗談などを言って時間が経過するうちに、集まった客は、「今日の雪には、あなたの漢詩がどうしてなくていいだろうか(いやなければだめだ)」と言って、私に漢詩を依頼したので、私は、「いやいや、昔は雪月花の機会にめぐりあえば、すぐに詩が思いつくこともございましたが、今は老いぼれて、歌心もございません。詩も長らく捨てて作っていないので、口が滑らかではなく、何を言っていいかわからない。しかし、今日のご訪問が忘れがたく思われるままに、なんとかして申してみましょう」と言って、しばし考えて、

  

家は駿河台の内に住む、門は万里の流れのそばに立っている。

雲に隠れる平野の木、雪の中、棹で進む遠江(駿河の向こう・浜名湖あたり)の舟。

私は老いており、安道に自らを重ねることがはばかられるが、客として来たあなた方はだれもが子猷である。

草の庵はただ静まり返ってさびしい、喜んで、なじみの友と一緒に遊ぶ。