プラトン『パルメニデス』第2部を読む⑳

 

 

 

Ⅲ 前提 一について〈ある〉が肯定されるならば、

  結論 一は~でもあるし、~でもある。

※Ⅲから結論部分が一以外のものになりました

 

 「一」は「一以外のもの」ではない。「一以外のもの」は「部分」をもつ。部分というのは、「全体」に対する部分のことである。

 もし、「全体」に対する部分ではなく、「多」の部分であると仮定すると、部分Aは、A自身の部分ではなく、別の部分Bの部分でもない……というふうに、多をなしているどれ一つの部分でもないことになる。どれか一つの部分でないものは、それらすべての部分でありえないので、「部分」は、「多」の部分ではないとわかる。

 「部分」は、「全体の」部分であるため、「全体」を分有している。つまり、「一」を分有する「一なるもの(完全なる全体)」である。したがって、「部分それぞれ」についても、「一」を分有する「一つ」の部分であると言える。一方、「一」を分有することは、「一」であることとは別である。「一」であることは、一そのもの以外は不可能である。

 「一」の分有は、全体にとっても、部分にとっても必然である。「一」の分有は、「一」であることによってではなく、「一とは異なるもの」である限りにおいて行われる。「一とは異なるもの」は、「一」ではないので、「多」であるか、「無」であるかなのだが、「無」は「部分」や「全体」をもちえないので、不適である。したがって、「一とは異なるもの」は「多」であり、それは無限に多いと言える。

 このことは、「一」を分取する過程を見て行くとわかりやすい。「分取していない」状態から、「分取しつつある」状態を経て、「分取している」推移する。「分取しつつある」状態では、「一」は内在していない。つまり、多としてある。そこから「最小のもの」を取り除くとする。この「最小のもの」は「一」を内在しないので、すでに「多」である。このことから、無限に多いことがわかる。

 その一方で、「限界をもつ」と言うこともできる。「一つの部分」は、部分相互に対しても、全体に対しても限界をもつ。全体もまた、部分に対して限界をもつ。本来無限性をもっていたはずの「一以外のもの」は、それ自体に内在していない「限界」を分有することで、「限界をもつ」のだと言える