プラトン『パルメニデス』第2部を読む②

 

※田中美智太郎訳。新訳が出ても、とりあえずプラトンはこの人の訳で、読みたいです。

 

 

Ⅰ 前提 一について〈ある〉が肯定されるならば、

  結論 一は~でもなければ、~でもない。

 

 「一つ」であるならば、「多」ではありえない。このことは、納得できるはず。

 ①したがって、「一」は「部分」や「全体」ではないことがわかる。なぜなら、「部分」というのは二つ以上で構成されるものであり、「全体」というのは部分がひとつも欠けていないもののことを表しているからである。つまり、「全体」というのは、「部分」の存在を前提としているのだ。したがって、部分や全体のあるものは、「二つ以上で構成される」ため、「一つではない」ことになる。

 ②これをふまえれば、「一」は、「始めもなければ、終わりもなく、また、中間もない」と言える。なぜならこれらはすべて「部分」だからである。

 ③「始めもなければ、終わりもなく、中間もない」のだから、「一」は「無限のもの」であると言える。

 ④また、「始めもなければ、終わりもなく、中間もない」ことから、「一」は「形」がないとも言える。

 

 原因と結果を見せられ、そのつながりを瞬時に理解することができないとき、種のわからない手品を見せられたのと同じような心の状態になります。「どういうこと?」と必死に理解しようとすると、視野が狭くなるので、「一本線」で因果をたどりがちになります。特に、不安や恐怖を感じるときには、てばやく一本の因果を結んで納得しようと、あわててしまいます。共通テストの大問1で取り上げられた、妖怪の話にもつながるものです。あるいは、なぜ減点されているのかわからない英文和訳の答案が返却されたときにも、同じことが起きます。

 ここでの議論は、あてはまるものと、あてはまらないものがあります。序数としての1の定義には、あてはまりそうですが、具体的なものにはあてはまりそうにありません。「単細胞生物」は「単」とついているからには、「多数」存在してはならないというように。

 最初、「一つであるなら多ではありえない」という話をされたとき、自分なりに、「ああいうことを言ってるのかな」と寄り添うはずです。すると、およそ常識の範囲で、あてはまるものが見つかってしまう。そして、見つかって安心したら、自分がどういう範囲内で適用可能な話として、「一つであるなら多ではありえない」をとらえたのかを忘れてしまい、相手の行う範囲外への議論拡張へと、ひょいひょいと乗せられてしまうのです。不用意な一般化が行われている可能性がある場合、頭の中で反例をひとつ見つけて、この理屈がすべてに適用可能な定義ではないことを確認して、何について言えることなのかをすぐさま自問自答するものです。

 また、①では、簡単な足し算をしていたら、集合(クラス・類と種)の話に変化しています。扱っている平面が異なるので、当然、話がかみあわなくなります。もし、議論でもしているなら、いったん前提を再確認すべきです。また、部分と全体の話も、具体的なものを表しているのか、数学的な集合を指しているのか、明確ではないので、そこにしっかりと分岐点を作る必要があります。

 もちろん、抽象と具体を論理の枠を超えて自由に行き来すればすることも可能です。しかし、その言葉は論理ではなく、詩になります。プラトンのイデア論は、詩的要素が、概念を美しく結晶させる助けをしているので、文学・芸術としても親しまれているのです。何事に対しても論理として見ようと固執するのではなく、こちら側にも、柔軟な切り替えが求められる場面です。ディズニーランドに行って、かぶりものをしないタイプの人が、別に正しいわけではありません。わたしは、二周くらいまわって、絶対につける派です。

 一方、論理の側に進もうとするなら、素朴集合論のままでは、ラッセルのパラドクスが待っています。すでに、『パルメニデス』において、そのあたりの困難も示唆され、無数の発想転換の中に、乗り越えるために必要なこともまた、素朴に示されていたりします。

 一つの不整合に対して、ナンセンスだと腹を立てるのは、毒気に当てられた人でしょう。しかし、毒から学べることも多いのです。論理というのは、活躍してほしいときに活躍してくれないといった印象が強くなるのは、どこかに適用範囲のずれや、平面の不整合などが起きているのです。

 このあとは、ひとつひとつ指摘するという野暮なことはせず、論理の飛躍を楽しんでいきます。