J・L・オースティン『オースティン哲学論文集』所収「他人の心」を読む⑧
22:「怒っている」と「知っている」
「怒っている」というのは、「機会や兆候、感じ、および、外的な顕現や他の原因までも含む、諸事象の全体パターンの記述」です。物語の心情をつかむというのは、どこかに「怒りそれ自体」を探すことではありません。また、感情のパターン」の特異性として、弁別の経験だけでなく、自分自身がその感情を経験する必要があるという点が挙げられます。みずから経験しているという点も、一般的なパターンへの信頼につながるのでしょう。「幼さ」が問題になるとすればこのあたりです。もちろん、本当に「幼さ」が問題なのか、「幼い気持ち」ならちゃんとつかめているのかを、確かめる必要があります(たいていそんなことはない)。
一般的なパターンへの「信頼」があるからこそ、その一部(顔の表情や口調など)しか観察していない段階で、多くの場合、「知っている」と言えるのです。「パターン」が至高の権力を持っていることは、自分の感情に関してさえ、外部からの訂正を受け入れる場合があることからも、わかります。
心情語は、多様なパターンに対応できるように、あいまいな側面が用意されているので、物語の心情の問題で、そんなにナーバスになる必要はありません。もちろん、目の前の相手との関係において、標準的でないケースも多いので、正確に何と言っていいかわからないこともあります。そういうときは、素直に頭を抱えて悩むか、相手にいろいろたずねて煙たがられるか……人間なので、そのあたりはどうしようもありません。物語の登場人物たちも、よく途方にくれたり、誤解したりします。ただ、少なくとも、物語で問われているところは、わかりやすいと判断された部分だけなので、一般的なパターンを信頼して大丈夫です。ふつうに自分が日常生活を送っている通りの感じが出せればよいのです。テスト中とはいえ、物語の世界の中に、せめて片足でもつっこんでないと厳しいです。
また、相手も人間なので、だまそうとする場合があったり、自分と同じように感じると思っていたら違ったり、何か意味があるのかなと思ったら偶然だったり、いろいろなことが起きえます。でも、だいじょうぶ。「目が笑ってない」のように、おおざっぱな対処の方法はあります。もちろん、あとで「ごめん」と謝りつつ、改訂を受け入れる必要があるときも多いです。母が自分の子のことを「知っている」と言うときのように。
ただ、「多くの正常なケースでは、本人の言明を信じるのが出発点」です。本人の感覚言明が特権的なのは、本人が感覚を直観しているからではなく、聞き手が本人を尊重しているからです。そのあたりの前提がないと、「でも、ぼくはそう思わないもん……」で、止まってしまうかもしれません。
メモです。