J・L・オースティン『オースティン哲学論文集』所収「他人の心」を読む⑦
18:重箱のすみをつつく意味
オースティンは、重箱の隅をつつくことになると、最初に宣言しています。そして、実際に隅っこをつついています。一見散漫な印象を受けますが、ウィズダム氏のように、どの分野にも、自然科学的な「法則」を見つけようとする人たちが、一定数存在します。法則化されると、自由がなくなってしまいます。人の心の解釈に、自由がなくては困ります。法則は、反例ひとつあれば偽となるので、オースティンはこのような作戦を取ったのです。ウィズダム氏の説をおおむね正しいと認めつつ、絶対に正しいわけではないという余地を残すために。オースティンは、自由を守るために戦っているのです。一方、ウィズダム氏は、「心情がわからない」と生徒が困っていたり、「人の心なんてわかるもんか」とやさぐれていたりするのを見て、なんとかしてやりたかったのでしょう。「だれにでも簡単に心情をつかめるよ、あきらめないで」という勇気を与えるために、このような定式化を行います。「どうせボクは勉強なんてできないし」と言っている人には、「必ずできるよ」という言葉を投げかけるものです。ここでの「必ず」は、なんだか勉強がこわくなくなったぞと思ってもらいたいという意味であって、未来の保証をしているわけではありません。
他人の心についても、全身全霊で慮ることよりも先に、ひとまず定式にあてはめるようになってしまうと、本末転倒です。そんなことはウィズダム氏にもわかっているはずです。ただ、だれかひとりが目配りの行き届いた考えを述べるより、ひとりが勇気を与え、ひとりがブレーキをかける方が、現実においては役立つのではないかと思います。ぼくは行けるところまで行ってみるから、吟味は君に任せるよというように、互いに信頼したうえで議論を戦わせることによって、生まれるシナジーがあるのだと思うのです。だから、オースティンは、コミュニケーションは相手への信頼に基づいて成り立っていると、繰り返し主張しているのです。
19:「知る」こと以上のもの
「知っている」と言明するための条件は、「どのように」知ったのかを説明することでした。「経験」と「好適な状況」の両側面から、判別能力が正しく発揮できていることを示すのです。感覚言明であっても、特権的な地位にはなく、その条件に従う必要があります。ただし、短気を起こして、「知ることができない!」と極論する必要はありません。なんだか受験勉強の話のようです。また、「他人の怒り」を「知る」ためには、表に現れている対象の弁別だけでなく、さまざまなものが求められます。たとえば、その感情(感じ)を自分でも経験していることが必要です。また、「怒っていること」は、「リンゴの赤さ」のようなものではないので、「想像(推察・理解・察知)する能力」も必要です。
20:ウィズダム氏への反論
ウィズダム氏は、「身体的兆候」と「感情(感じ)そのもの」を分けることを提案しています。一見、もっともらしく聞こえますが、オースティンは危険な単純化であると指摘します。ここでも、アクセルウィズダムとブレーキオースティンが協力しているのです。「兆候」というのは、現に感覚されているものには使わない言葉であり、あくまでも、こみあげつつある怒りや、抑制された怒りのしるしのようなものを指します。「怒りの兆候(まゆのひきつり・声の震えなど)」は、「感情そのもの」と対置されるものではなく、「怒りの表出(発散行為・表情)」と対置されるべきものです。また、「身体的」という言葉は、「精神的」と対置されるもので、哲学者は昔からこの二分法を好みます。しかし、一般的に、「怒り」のような「感情」は、「心」に分類されるものです。このような指摘に、決定的な意味があるわけではありません。あくまでもブレーキなのです。
21:「純粋な怒りの感情」というものが、内在しているわけではない。
オースティンは、ぼんやりとした霧を払えば、「怒りの感情そのもの」を直観できるというふうには考えません。「感情」は、特定の「表出形式」と密接に結びついているので、そこから切り離してしまうと、かえってぼやけてしまうというふうに考えます。パイナップルの味も、見た目とにおいをなくしてしまうと、かえってわかりにくくなります。かといって、兆候を原因、表出を結果というふうにとらえるのもおかしなことです。原因や結果は、外在するものに対して用いる言葉です。ということで、「怒っていることを知っている」と言うとき、目を閉じ、鼻をつまんで、その「感じ」に耳を澄ますのではなく、兆候や表出や、それまでの出来事も含めた「全体像」を通して、「知っている」と言明するのです。したがって、「怒り」とは、「感じ」そのものではなく、この「全体像」のことだと言うことができます。
このような考え方は、言語の世界ではなじみ深いものです。単語という分子的なものが先にあって、それが組み合わさって文ができているのではなく、文が先にあって、その文意を担う単語が切り取られていると考えるのです。したがって、物語で「心情がわからない」場合、判断材料を集めきれていないまま、選択肢とにらめっこをしている可能性が高いのです。あるいは、自分の経験や記憶との照合をせず、ただ文字同士を見比べている可能性もあります。
メモです。