J・L・オースティン『オースティン哲学論文集』所収「他人の心」を読む⑥
この本は、わたしにとって、全体像をつかむことがあまりに困難な、つるつると滑り落ちる坂道でした。最初は、布団の中で読もうとしたのですが、数行進んで顔の上に落ちて来る凶器と化し、夢の中でもわたしを苦しめる存在として、放置されました。そして、数年後――意を決して、図式化して、ていねいに読もうと思ったのでした。
全体像がつかめない本は、いくら線を引いてもダメなのです。本には、いろいろな読み方があります。なんでこんな興味の湧かない本を紹介しているのだろうと思われるかもしれませんが、自分にとって挑戦しては跳ね返されてきた本を、何とかして読んだよという記録のようなものです。気持ちは、国語の文章を高いハードルだと感じている子どもたちと何も変わりません。
15:いったん復習します。
「知る」ためには、先立つ経験が「判別能力」を与えることが必要です。「感覚言明」であっても、それは同じことで、感覚対象がみずからを開示するわけではありません。したがって、感覚対象を逐語的に口にできるものではなく、他の事柄のように、「どのように」知ったかを説明できなければなりません。また、「知っているならば誤ることはない」という命題については、後になって間違っているとわかったときに、観念の訂正が認められているということ、人間の知性の限界を問題にしているのではなく、具体的な理由についてのみ扱うことが、見過ごせないポイントでした。
16:「知っている」と「約束する」
「確信している」と「知っている」のちがいとして、前者が私の側の事柄なのに対して、後者が他者への責任をともなうという点が挙げられます。似たような責任をともなう言葉に「約束する」があります。ただし、「知っている」も「約束する」も、はあくまで「確信している」と同一評価次元にあり、「知っている」に高次の普遍性や未来の保証が含まれているわけではありません。それなら、「知っている」にともなう「責任」とは、何に由来するものでしょう。これらの言葉には、知っている「と言った」、約束する「と言った」のように、「と言った」が内在されており、これが問責の要点となっています。
17:「知っている」は、言語行為である。
つまり、「知っている」は、状態を記述した言葉ではなく、「知る(立場)」+「言う(責任)」を合わせた「言語行為」であると言えます。「立場・権限」の有無は、「どのように」の答えにあたる「適切な状況(判別能力+機会)」によって裏付けられ、「責任」の有無は、「ある一定の形式の言葉を言うこと」によって生じます。両方が合わさって1×1になったとき、「知っている」という言明が成立し、0×1(知っていないのに、知っていると言った)、1×0(知っているが、そのことを言明していない)のような場合は、不適切です。答案を書くことも、同様に、ひとつの言語行為です。
メモ。