J・L・オースティン『オースティン哲学論文集』所収「他人の心」を読む④
10:(2)「それが特有の~であるということは確かか?」
1「感覚言明は誤らない」byウィズダム氏
「特有の~なのは確かなのか?」という問いに関連して、まずはウィズダム氏の主張を検討します。「感覚言明は、最勝義において誤ることはない」。言葉が少し難しいのですが、「感覚言明」とは、「痛い」「甘い」「怒っている」のように、五感で感じたことを言葉にしたものです。「最勝義において」というのは、「第一義的に」「ふつうに使用されるうえでは」という意味合いです。嘘をついたり、言葉を間違って覚えていたりする場合もありえますが、ふつうはその可能性を気にする必要はないだろうということです。はたして、この命題は真なのか?
2「感覚言明の特異性」の定義 byウィズダム氏
感覚言明は、他の言明とは異なった性質があるようです。ウィズダム氏は、「それらが正しく、しかもXによって主張されたものであるならば、Xはそれらが正しいことを知っている」と定義します。要するに、自分に「痛い」と言ったなら、自分は「痛い」ということが正しいことを知っているということです。一見、あたりまえのように思えます。たしかに算数の問題は、こういうわけにはいきません。しかし、感覚言明に特権的な地位を与えることは、経験論が懐疑論へと陥った一歩目なので、オースティンは慎重に「穴」を探します。何かおかしなところがあるはずなのです。哲学は、机上の空論を戦わせるものではなく、この地上で、よりよく生きることを後押しする「意図」をもって考える学問です。オースティンは、バランス感覚にすぐれていると思います。
11:ウィズダム氏への反論
「感覚」と「感覚言明」は、ウィズダム氏の言うような「即自的に結びつくもの」ではありません。その証拠に、われわれは、知覚したものを、いつでも完全に言うことができるわけではないのです。また、「感覚言明」は、「である」と言い切られているので、「記述的(予言的・客観的)」なものに見えますが、実際には、「自信」「ためらい」を含むものです。「ここに赤いものがある」と言う場合も、正確には、「ここに、私には赤いように見えるものがある」ということを意味しています。なぜ、このような「ためらい」が混じるのかと言えば、「感覚」を「知る(再認する)」には、記憶を参照して、似たものを見つけて来るという過程を含むからです。
読んだときのメモ。