介休県にある観光地を目指している田舎の村(メジャーではない)。
筆談でガイドをしてくれた村の子たち。


左手に握っているのが、ふらふらやって来た日本人を相手に、

一生懸命いろいろ書いてくれたノート。

観光地でガイドめいたことを買って出る人、

つまり、勝手についてきてあれこれと案内する人は、

あとで100%お金を要求する…というのが旅をする人なら、

たいていは経験則として持っていることでしょう。

アンコールワットでも、ショナルガオでも、どこでもそう。
そういう人を相手にするときは、不愉快になることも多いです。

ガイドが不要だと言うと、悪態をつく、

お金を払っても、もっと要求する、ということも多いです。

けれど、この子たちは頭が下がるほど一生懸命に案内してくれました。

私が理解できないことに、真剣に悩んで、何とか伝えようと、

二人でいろいろと話し合っては見せ、話し合っては見せ……。


それに報いることができるのは、せめて、ちょっと喜んでもらえるくらいの、

後で要求されるであろう額に、貧乏旅行の中で、できる限りのささやかなほどの、

金額をのせて渡すことだと、何を書いてもらっても、あんまり理解できていない、

頭の片隅で思いながら、あいまいにうなずいていました。


1時間以上かけて、何もない(地下トンネルはある)村をぐるりと案内してくれた後、

タクシー(ノーヘルでバイクの後ろに乗る)運転手のところに戻ってくると、
不意に我に返ったように恥ずかしそうに、バイバイと言って、キャーと逃げていきました。
それを見て、何をするともなくそのあたりにいた、白いランニングシャツ1枚のおじさんたちは、
ほほえましそうに白い歯をのぞかせました。

塾に通って中学受験をして、そうして得たものは何でしょう?
教育とは、やはり一握りの人間しか薫陶できないものなのでしょうか?

なぜ受験勉強をするのか? 学校で習う以上のことを学ぶ教育とは何なのか?

社会に出て恥をかかないためだと言われて、ショックを受けました。

それは社会ではなく、世間です。

口さがない母親たちから、陰口をたたかれないために、

絶対に得なければいけない、受験の合格なら、
そんなに不毛なものはありません。

そうして、今日も寝られずにいます。

逆です。社会に出て、世間を前にして大いに恥をかけるようになるためです。

勉強ができない人ほど、自分しか見えなくなり、恥をかかないように気にするものです。
勉強ができない人のノートほどマルが多いのは、だれもが知っていることです。
そういう受験勉強なら、しないほうがいいと思います。


恥をかかないための勉強などないことは、勉強をしてきた人なら知っていると思います。
勉強を進めれば進めるほど、難しい問題にぶつかることになり、恥を掻くことになります。
進めなければ掻かないかったはずの恥を必ず掻きます。

そして、できないという恥を掻いているにもかかわらず、
それを恥だと感じることよりも、大切なことに気付けるようになります。

できない自分を、できる自分にしてしまいたい人は、
勉強に終わりがあると錯覚しているのでしょう。

だから、自分が満足したら、そこを終わりだと誤解して、
あとは忘却の一途をたどるのです。

筋肉と記憶は同じようなものです。
使わない筋肉は衰えます。

できる自分になどなれません。

なぜあんなハードルを越えたときに満足できたのか、
なぜそれを超えたときに特別だと感じられたのか、
あんなにも手前だったではないか――そのくり返しです。

世間ズレしていない彼女たちを見ながら、
世間ズレした自分を恥ずかしく思いながら、
ポケットの中の百元を握りしめたことを、
思い出しました。

世間知らずの方が、ヘンに頭のいい子よりもいいと思います。
子どもは遊ばせておけばいいのだ、などという乱暴な意見も、
今私が塾をやっているような都会でなければ、真なのかも知れません。

利己的な目先の利く人間ばかりなら、
世間にほうっておいても、育つはずです。

もしも私の教え子たちが、
彼女たちと同じような状況にあれば、

何をするでしょうか?

プライド高く見て見ぬふりをするでしょうか。
観光のベンチャービジネスでも立ち上げるのでしょうか。
ちゃんと恥を掻きあえるような人間であれますように。