俳優の伊藤淳史さんの弟さんである隆大さんが自殺した。隆大さんも俳優であったという。まだ20代の若さで相模湖町にあるなんだか知らない会社の敷地内に停車していた車の助手席で、自殺死体となって発見されたのは昨日の昼間であった。

 練炭自殺であったという。

 助手席というのが不思議で、一瞬殺人か? と思い込むところだったが・・・苦しんでいるときに車の操作レバー類に触れないようにした気遣い・・・と僕は思ったのである。苦しんだり、意識が朦朧としたときに錯乱して練炭を燃やしたままで車を運転する行為に走るかもしれない。自殺する人間には悪気が少ないのである。

 僕は自殺できる人間を尊敬する。何も死ななくったっていいのにとは思わない。凄い勇気である。ただし・・・死ぬことができれば最後に何かできるのでは? なんて弱い僕は思うのである。

 「死ぬ気でやればできないことなんてない」などと死ぬ気もない奴が気軽に言う。なるほどと思うこともあった。女性にふられたのなら他の女性を口説いてみればいいし、いじめられているのならば逆に復讐してやってからでもいいし、貧乏ならばなんとか金持ちになってからでもいいではないか・・・なんて軽く思っちゃう。

 死にたくなるようなことがなかったからこそ、気軽に「死ぬ気でやればなんでもできる」なんて言いやがる。

 さらに「僕は自殺する奴を軽蔑する」なんておっしゃる馬鹿者もいる。うんうん・・・その通り。自殺しなければ汚い世界に足を踏み入れて神経を麻痺させて、逆に強い人間になっちゃう・・・それでもいいか?

 でも、他人を巻き添えにしないで死のうとする者は純粋で人間らしいのではないか?

 それでいいではないか?

 死にたくなれば死ねばいい。少子化とか年金とかくだらないこと考えずに死ねばいい。

 ただし・・・僕には人生観と言うか生命観と言うか運命観というものがあって“今ある時間は繰り返す”と思っている。馬鹿馬鹿しいかもしれないが今生きている時間は・・・たとえば僕を考えてみよう。

 僕は昭和32年に生まれた。それが僕の時間、人生、生命、運命の始まりだ。で、僕が57歳で死ぬとする。それが僕の時間、人生、生命、運命の終わりであるとする。すると僕は死んだら昭和32年の生まれたときに戻るのである。そしてまた57歳まで生きて死ぬということを何度も無限に繰り返しているのだ。

 それでは親やその前はどうなのか? それも僕同様に生まれては死ぬときまでを無限に繰り返しているのだ。大まかに言えば時間とはそういうものだと思っている。古代の担当のものは永遠に古代のままで、奈良時代だって平安時代だって、江戸時代だってそのままで生き死にを繰り返しているのだ。

 ならば・・・自殺して人生を終えればその人間は何度も自殺を繰り返すことになるのだ。殺されて死ねばいつも殺される運命にあるんだし、交通事故死ならば永遠に交通事故死だ。

 これは輪廻転生に近いが、輪廻転生と言うのは何か他のものに生まれ変わるといいう考えだったと思う。それは違うのだ。人は同じことを繰り返すのだ。違うものなんかには転生したりしない。今の自分にしかなれないのだ。ただし・・・これは生命は不滅だと言うことでもある。

 ちょっと生命と言うことから脱線する。

 戦争だって何度も懲りているはずなのに何度も何度も人を殺し続けている。これは繰り返しの一部でもある。

 音楽だって、芸術だって、野球だって、サッカーだって、仕事だってなんだって実質的には新しいものなんかできやしない。もともとは同じもので変わりようがないのだ。アナログからデジタルに・・・と技術的には多少の(多少のである)変わる。それはしかたがないのだが「実質的」には行為そのものは何も変わりがないのだ。

 それは・・・なんにしても「限界」があるからだ。音の数も絵の描き方も、野球の仕方も、そのほかの物もなんだって限界がある。だから繰り返しが起こるのだ。限界はあるが繰り返すことで行為は永遠に継続してしまう。

 生き物も生きているからこそ生命の終わりがある。限界がくる。しかし、生命はなくならない。子に受け継がれる・・・そんな軽薄なものではない。自分自身の問題である。問題と言うのはおかしい。自分の話なのである。

 で、何を言いたいかというと・・・苦しいときに死ねば永遠に苦しいのが続くことになるので、楽で楽しいときにこそ死んじゃおうぜということだ。これはそこら辺の偽善者が言っていることとは本質的に異なる。

 今から死のうと思っている人間に何を言っても無駄だと思うが、辛いときに死ぬのは止めよう。本当に楽で楽しいときこそ死のうよ。永遠に続く苦しみよりも永遠に続く楽を選ぼうよ。