「敬遠中国」の元祖は聖徳太子である。太子は西暦607年、隋の皇帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」との書を送った。日本天皇と中国皇帝を同じく「天子」と呼んで、中国の皇帝のみが世界の中心であり、周辺国はその臣下として、国王であることを認められるという中華思想、冊封体制から脱却した宣言であった。
その後、聖徳太子の理想を大化の改新で追求した天智天皇は、同盟国の百済を守るべく、唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、大敗を喫したが、その後は国内の守りを固め、その後の奈良・平安の時代は、我が国は大陸での戦乱を他所に繁栄を謳歌した。
天智天皇・天武天皇の時代には、中国式の律令体制を導入した。これは中央集権体制により、国防力を強化するためであった。しかし、中国からの脅威が和らぐと、律令体制が崩れて、貴族や寺院による荘園制がとって替わり、そこから封建制が発達していく。
この封建制が熟して太平の世を築いたのが江戸時代であるが、これは中央集権制を続けた中国とは全く別の道であった。江戸時代の日本は、当時の世界でも最高水準の教育レベルを誇り、幕末に来日した多くの欧米人たちは庶民の幸福な生活ぶりに驚嘆した。これも中国から離れて、日本独自の文明を築いた結果であった。
(文責:伊勢雅臣)