【「天は人の上に人を造らず」の意は不満ばかり言う民への批判】:今に通じる福沢諭吉「学問のすすめ」 | なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪

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【「天は人の上に人を造らず」の意は、不満ばかり口にする国民への批判】
今に通じる福沢諭吉「学問のすすめ」



《2014/3/29 msn産経ニュースから》




マスコミの側の記事からこういった論が出るとは!
さすが産経ニュース!
朝日の「天声人語」の1000000倍イイ!



ーーーお時間の無い人のために、以下抜粋ーーー


◎「国は頼るものでなく、支えるべきである」
◎「教育は“無償の愛”をかけて、人を育ててゆくもの」
◎「相手を批判するときは、必ず“対案”を持て」
◎「物事を変えるには、アジテートも辞さない」という考えがあり、現代マスコミのように、読者に媚びたり、嫉妬心をあおったりして関心を引くべきではない。
◎ 人をねたむ前に自ら努力せよ。
◎「怨望(えんぼう=嫉妬心)は最大の不徳である」


ーーーまとめーーー

人間は、自分のためだけに一生懸命生きるとき、崇高になるのではなく、周りの人たちのため、国のためになろうと思ったときに、初めてそこに徳が生まれ、品格が養われ、人間器量が大きく膨らんでゆくもの

ーーーーーーーーー


ちょっと的を射ていて個人的にドキっとしたり、
産経以外他多くのマスコミに対しては痛快な気分になった。
さすが福澤諭吉先生だわ。


福澤諭吉翁




なべちゃりん








ーーー以下がリンクと全文転載ーーー


http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/140328/wec14032819470016-n1.htm



「天は人の上に人を造らず」の意は「四民平等」にあらず、不満ばかり口にする国民への批判だ…今に通じる福沢諭吉「学問のすすめ」


◼︎国は「支える」もの

 「立国は私なり。公に非ざるなり」とは、福沢諭吉晩年の著書「痩せ我慢の説」の冒頭に書かれた一文です。

「政治家や官僚は国からお金を貰っているのだから、国家のために尽くし働くのは当然である。しかし一般の国民が、私立の会社や機関が、国家のために貢献しようと努力することこそ尊く、それがあってこそ国家は繁栄してゆく。つまり国を支えてゆくのは、志を持った国民一人ひとりである」

と福沢は説いています。

 まさしく「国は頼るものでなく、支えるべきである」

との信念から、明治新政府からの再三再四の懇願を退け、生涯政府の中に入ることなく、野にいて、民の立場で国を支える立場を貫き通しました。


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 ところが、今の時代は「国は頼るべきである」という考えが横行しており、何かあると、二言目には

「国が何もしてくれないから」と口にするだけでなく「学校が、あるいは企業や組織のリーダーがダメだから」などと独善的・利己的で謙虚さのかけらも無い極めて他責本位の人々が多くなっているように思われます。


国が悪いから国民も堕落するのだと考えるのではなく、一人一人がしっかりと自責の念を踏まえ「独立自尊」の気概で「立国は私から」の思いを強くしていけば、その集合体である国家の未来は切り開かれ、必然的に自立した品格のあるものになるはずなのです。



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◼︎「無償の愛」で人を育てる

 マスコミは、国民の感情を煽るように
「国が、政治家が、役人が悪いんだ」
との主張を繰り返しますが、その中で
「われわれ国民の皆が、もっとしっかりしなければ」
と訴えるメディアが、まず見当らないのは、残念なことです。
福沢は、自ら創刊した「時事新報」を通じて「この人民ありて、この国家あり」といくたびか、国民の自覚を呼びかけております。近代日本が始まった原点において文明開化を啓蒙し、新生日本人に「学問のすすめ」を説き、国民全てに対して精神的支柱を与え続けた先哲の教えを、今こそ復習すべきです。


 昔の日本の教育界には、優れた師がいて弟子を感化し、その弟子がまた良き師になって門弟を育ててゆく-という好循環があったようです。福沢に影響を与えたのは緒方洪庵であり、その師は坪井信道だとされています。緒方は、師の坪井が医者として稼いだお金を全て私塾に注ぎ込み、自分の得た学問を広めようとした姿に接し、自らも医者として得た儲けを、適塾に惜しみなく投下しました。その適塾に入門した福沢の学問への強い情熱を汲み取った緒方は、かれを塾頭に任じ、食客扱いしたのでした。


「教育は“無償の愛”をかけて、人を育ててゆくもの」

であることを実体験した福沢が、慶応4年、33歳の若さで、人造りの場としての「慶応義塾」を創立し、自らの著作活動で得た印税を惜しみなく注ぎ込んで義塾を支え続けたのも納得できます。

 ちなみに、江戸末期に数百を数えた学問所・私塾のうち唯一、慶応義塾(創立151年目)だけが、明治の学校制度を経て今日まで、源体のまま生き残っているのも、愛と使命感の賜物といえます。

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幕末に欧米列強世界を見た福沢は、


『日本も早く国民国家を打ち立てなければ、植民地化されてしまう』

との危機感を持ち、義塾を創立し「半学半教」の考えの下、教授と塾生の関係を、学問の進んだものが後進を教え、教授自身はさらに前を行く内外の師に学ぶという学風を打ち立てました。



◼︎マスコミは“対案”持って相手を批判せよ

もう一点、福沢が重視したのが「実学」の精神でした。

商売を学んで盛んにせよ、と述べる学者はほかにもいましたが、西欧に触れた経験から福沢独自の発想がすごかったのは、当時の日本にまだなかった複式簿記や保険といった実務こそ、実際に役立つ学問であると先導したことでした。 また、開国後は外交が最重要だ、そのためにはコミュニケーション能力が大切だ、と日本最初の演説館を塾内に建立し、大いに「多事争論」(福沢造語)を奨励し人材育成に努めました。


 中でも、わが国最初の社交クラブ「交詢社(こうじゅんしゃ)」を立て、各界のリーダーや多芸多才の人々が集まって意見を交わし、自分を磨いてゆく場とし、また互いに得意な力を結集させることで、新たにもっとスケールの大きな物事も推し進められることを証明して見せたのです。こうした中から東京海上、明治生命、横浜正金銀行(初の外為専門銀行、後の三菱東銀)などが構想・創設されて行ったのです。

 マスコミの重要性と影響力にも注目し、「時事新報」を創刊、後に、明治の文明開化最大の功労者といわれるような社会啓蒙に勤め、政治から日常生活に至るまで、意見具申を提示する一方で、報道人の心得を、あるべき姿を、説き続けたのでした。

 中でも、「相手を批判するときは、必ず“対案”を持て」と主張しており、これこそ、昨今のジャーナリストの面々には肝に銘じていただきたいと思います。



◼︎庶民、華族、宗教家、すべてこき下ろし…

 明治5年刊行の「学問のすすめ」初編は、その後17編におよび、累計で340万部(当時の人口が3千500万人ですから、今なら1360万部相当でしょうか)を超える超特大ベストセラーと成りました。

 本書は冒頭の「天は人の上に人を造らず」という文言から四民平等を唱えたものと受け取られがちですが、中身は全く違ったものです。福沢は本書において、国民が自らの勉強不足を棚に上げ、政府に対する不満ばかりを口にしていると痛烈に批判し、国を良くしようと思うなら、もっと学問せよ、と冷や水を浴びせたのです。

 批判の矛先は庶民だけに向かったわけでなく、葬式仏教に成り下がった今の坊主どもはどうしようもない、華族どもは、まるでものを考えず生きてきただけで、常識不足で、人間器量もないから、もっと身近な勉強から始め、人質レベルを上げよ…などとこき下ろしました。


 福沢には「物事を変えるには、アジテートも辞さない」という考えがあり、現代マスコミのように、読者に媚びたり、嫉妬心をあおったりして関心を引くべきではないとの信条を持っていました。大衆の英雄だった楠正成や忠臣蔵四十七士をこき下ろし、とうとう右翼に命を狙われる羽目に陥りましたが、それを恐れることなく、植民地化の危機が迫っているのに目覚めない国民に対し、ショック療法で啓蒙活動を続行したのでした。



◼︎「脱亜入欧」の歪曲

 創造的破壊という20世紀に生まれた経営用語がありますが、福沢は百年も前、これに先んじて、「掃除破壊(旧悪排除)」と「建置経営(新規創造)」という同じ意味の表現で、明治日本を啓蒙しました。

後世の評論家が、これを「脱亜入欧」論などと揶揄(やゆ)しておりますが、実際は頑迷固陋(がんめいころう)な国学者・漢文学者の守旧を排し、世界に開かれた進取革新の近代人になれと、説いたのが真相です。


 ちなみに、彼が残した揮毫に、礼記(大学編)の有名な語句から「格物致知・正心誠意・修身斉家・治国平天下」(個々人が物事の真理を究め、自己の道徳知を発揮し、正直な心と真心で、それぞれの家庭を整えるならば、国がうまく治まり、天下を安んずる事ができる、の意)とあるのを見ても、福沢の漢学の素養は相当深かったことが伺えます。


◼︎人をねたむ前に自ら努力せよ

 こうした諸々の啓蒙思想の中でも、福沢が特に警鐘を鳴らしたのは、「怨望(えんぼう=嫉妬心)は最大の不徳である」として、より良い社会を造るには、成功者をねたまず、敬意を表し、自らも努力をかさねることが重要だと説いたことです。


 彼は塾生の長所を見極め、伸ばす教育が得意だったようで、強みや優れたところを褒め、将来の進路をアドバイスしたため、明治維新以降、各界で活躍する多くの人材を輩出することになったのです。人間は、自分のためだけに一生懸命生きるとき、崇高になるのではなく、周りの人たちのため、国のためになろうと思ったときに、初めてそこに徳が生まれ、品格が養われ、人間器量が大きく膨らんでゆくものだと思う次第です。

(上田和男)