鼠小僧 (日本橋人形町)
歌舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれる。10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16歳で親元へ帰った。その後は鳶人足となったが、不行跡のため父親から25歳の時に勘当される。その後は賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わる。武家屋敷の奥向に忍び込むこと28箇所32回に及んだが、土浦藩上屋敷(現:日本橋蛎殻町二丁目。当時の藩主は奏者番の土屋彦直)に忍び込んだ所を捕縛された。南町奉行所の尋問を受けるが、「初めて盗みに入った」と嘘をついて切り抜け、入墨を入れられた上での中追放の刑を受ける。
なおも続く盗人稼業 - 2度目の捕縛・処刑
一時は上方へ姿を消し、江戸に密かに舞い戻ってからは父親の住んでいる長屋に身を寄せる。しかし、賭博の資金欲しさにまたもや盗人稼業に舞い戻る。 その後7年にもわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込みついに、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷(当時の藩主は松平忠恵)で捕縛された。 北町奉行・榊原忠之の尋問に対し、十年間に荒らした屋敷95箇所、839回、盗んだ金三千両余り。と鼠小僧は供述したが、本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である。 3ヵ月後に市中引き回しの上での獄門の判決が下される。この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑であり、この判決は面子を潰された武家の恨みの産物という見方もできる。なお、引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで有名人の鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せた。
市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みずぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であった鼠小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をして口紅まで注していたという。
五尺に満たぬ小男で、動作敏捷といい、捕まったときは碌な家財道具もなく金もなかった。
処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36。
鼠小僧について「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えた」という伝説がある。この噂は彼が捕縛される9年も前から流れていた。事実、彼が捕縛された後に役人による家宅捜索が行われたが、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる。しかし現実の鼠小僧の記録を見るとこのような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから、江戸時代における反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使われることが多い。 彼が大名屋敷を専門に狙った理由については、敷地面積が非常に広く一旦中に入れば警備が手薄であったことや、男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別されており金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいという理由が挙げられている。