もう50年以上前になるでしょうか。私がアラ30のころ、そのころ付き合っていた僧侶と一緒に小さなスタンドで飲んでいました。その時の出来事を今日は書いてみたいと思います。
私は40を過ぎた頃から酒を断ち、今は晩酌もしないし、付き合いで酒を飲むことも一切ありませんが、若い時は付き合いで僧侶仲間と飲み歩き、午前様になることもしばしばでした。
酒は、昼間の労働で心身ともに疲れた人が、その日の疲れを癒やし、明日の労働への活力を養うために飲むものであって、お経を読むだけの僧侶なんぞが飲むものではない。仏教徒の守るべき最低限の戒律である「五戒」にも、はっきり「不飲酒(ふおんじゅ)」と定められているではないか。……昔の自分の行状を忘れて、独善的批判をしている私です(恥ずかしい)。
とまれ、私がまだ飲んでいた頃の話です。中年のママが一人で経営している場末の或る小さなスタンド・バーで、友人の僧侶と話しこんでいました。私たち二人の他に客は誰もいませんでした。
私は子供の頃から植物に興味があって、その頃週刊で発行されていた植物図鑑を購読していて、そこから得た知識を披露していました。彼も園芸に趣味があって、ランの栽培に凝っていました。
「本で知ったんじゃが、桜はバラ科なんじゃとのお。びっくりしたわ」
そんなことを言いました。私たちはそれから、浄土真宗の信仰の問題、金銀宝石で飾られた極楽浄土なんて、どうも信じ難いが、では極楽浄土をどう理解すればいいのか、……飲みながら、私たちは真剣にそんな会話を交わしていました。
その時、ママが、突然、
「へん! あんたらの悩みなんて、何やねん!」
と、大声で私たちを怒鳴りつけました。
「……?!」
びっくりしました。飲みに入ったスタンドで、いい気持ちで飲み、会話を楽しんでいる客に対して、ママが怒鳴りつけるとは!
私たちは、早々にその店を出ました。
一体、何だったんだよ。
「へん! あんたらの悩みなんて、何やねん!」
それからいろいろ、ママが腹を立てた理由を考えました。そして、今はママの心情を理解できたように思います。
ママは、私たち僧侶の悩みなんて、何という現実離れした、悠長な悩みを悩んでいることよと、腹立たしかったのでしょう。
ママは、最近店の客が減り、今月の売り上げが少なくて、月末の店賃や酒屋への支払いのことで切羽詰まっていたのかも知れない。あるいはスポンサーとの関係に問題が生じていたのかも知れない。ママの悩みは目の前に迫った厳しい現実問題である。生活が成るか成らないかの瀬戸際にたって悩んでいるのである。しかるに、飲みに来た坊主の話す「悩み」は、後生だの往生だの、およそ現実離れした、「悩み」ともいえない「世迷い言」ではないか。
「私の悩みは、そんなんじゃないんだよ! 目の前に迫った月末決算の問題なんだよ! 信仰だの極楽往生だのって、へん! あんたらの悩みなんて、何やねん! 桜がバラ科だろうが、マメ科だろうが、そんなこと、どうでもええやんか! へん! 何やねん!」
ママは腹が立ち、ついかっとして怒鳴ってしまったのでしょう。
そう、宗教家とか思想家とか哲学者とかが悩んでいる問題なんて、実社会で生活苦に喘ぎ、苦闘している人々からみれば、現実世界から遊離した「贅沢な悩み」なのかも知れません。あるいは問題の捉え方が見当外れになっているのかも知れません。このことを、僧侶たるもの、忘れないようにして、謙虚に思想を深めていかなければならないと思います。
しかし、”And now the end is near, And so I face the final curtain”と自覚している私にとって、「信仰」の問題、「往生」の問題は、重大で且つ差し迫った問題です。そして、このことは、全ての人がいつかは直面する重大な問題であると思います。
世の中の人々は、信仰もなく、後世のことを考えもせず、よく「あはは、あはは」と笑って暮らせるなあと、私は不思議に思うのです。何も考えず、「死」という深淵に飛び込めるものなのだろうか。確かに、信仰があろうが無かろうが、誰でも死ねるし、大多数の人たちは無宗教で死んでいくのだろうが、それで本当にその人の人生は「幸せ」だったと言えるのだろうか。死の間際に、その人は本当に、「神」や「仏」の名を呼ばないのだろうか。後世への希望を持たずに目を閉じることが出来るのだろうか。
「暗くはないのか。寒くはないのか」(二―チェ)。
ああ、私はやっぱり、「なむあみだぶつ」と唱えるだろう。そして阿弥陀如来に救われ、私自身が悟りの身となって、またどこかで誰かのために働かせてもらおう。また頑張るぞ! なむあみだぶつ!