とても久々の投稿。


在宅酸素のことを伺った前回のブログ、とても参考になるコメントを下さったり、励ましの言葉を下さった方々に御礼の返信をせねばと思いながらも、それからずっと、ブログを書けるような心境でも状況でもなく、時があっという間に流れてしまいました。


コメントを下さった方々、本当にありがとうございました。
個別にお返事しない無礼をどうかお許しください。


備忘のための、あれからの記録。



結局母はわたしと主治医のすすめで、在宅酸素を受け入れました。
今考えると、受け入れざるを得ないほど苦しかったんだと思います。


ただ、母の肺がんが呼吸に及ぼす影響はとても大きく、酸素を吸入しても、期待していたほど、母の弁では「苦しさ」は全く良くなりませんでして。


それでも、細い身体で、ボンベを引きずって何とか一人で近所に買い物に出掛けていたり、わたしが連れ出し何度か外出も、無理をして一泊の温泉旅行にも行きました。


でも、日毎にしんどそうにする様子がひどくなり、少しの挙動で「内臓が全て出そうな程の苦しさ」を訴えるようになり、6月の下旬には自宅から一歩も外に出れなくなりました。



じーっと、家で座っていることしかできなくなり、トイレも這っていかなければならなくなり。


いよいよ限界を迎え、時間をかけて何とか病院へ連れて行き、主治医に苦しさを訴え、そのまま入院になりました。


行きは母が乗っていた車を、酸素ボンベだけを持って帰る帰り道は、本当に切なくて悔しくて、もう母が病院を出れることはないんだと泣きながら帰りました。



ただ、入院から数日して、主治医から母の肺に胸水が溜まっているかもしれないとの話があり、数日かけて胸水を抜いたら、驚くほど母が元気になり、トイレに行けるようになり、部屋を歩けるようになり、1ヶ月ほどして退院することができました。


このまま、母はあと1年、少なくとも半年は元気にいられるのではないか?!と、思ってしまいました。
今思えば本当にばかです。お気楽な自分を呪います。


だめでした。
退院して数日は元気そうにしていて、わたしも、もしかすると、母も、油断していました。



今も、何であの数日間をもっと大事にしなかったのか、考えるだけで胸が苦しくなります。


日に日に、母の元気がなくなっていきました。
ごはんを残す量が多くなり、ごはんの時間に食卓につけなくなり、ベッドから起き上がれなくなりました。



退院から10日あまりで、でもう辛い、苦しいと、病院に行きたいと母が言い、緊急で外来に赴き、先日そのまま再入院となりました。


たまたま主治医がおらず、別の医師が対応したため、淡々とした言葉で、この状態が癌の悪化による症状であると母に聞かせてしまったことも良くなかったのか、入院してからの母はもう全ての気力を無くしてしまいました。



そして身体自体も、ここからの回復は、もう見込めないとのことです。
1日1日が、大事になってくると。




母はまだ、何とか生きていますが、でも、もう自力でトイレはおろか、ベッドに起き上がることもできないそうです。


ちょうどコロナの7波が来てしまったことで面会が一切できなくなり、母の様子はわかりません。


でもたまに返ってくるメールが誤字があったり、絵文字も何もないこととか、メールが打てずにかけてくる電話(持ってきて欲しいものなど)の声音、息遣いから、母の体調、心が、とてもとても弱くなってしまっているとわかります。


お別れはすぐ近くに来ているかもしれない。



わたしは、わたしの家で在宅看護で看取りたいと思っているけれど、母は病院が気が楽だと、このまま緩和ケア病棟に移ることを考えている。


緩和ケアに移れば1時間ほどの面会は許可されるはず、でも、緩和ケア病棟に入れるのは1ヶ月くらいかかる。



そこまで、母が生きていられるのか、今この瞬間も急変の連絡が来るんじゃないかとひやりとします。


悔しくて悔しくて悔しくて、後悔することばかりで、泣いてばかりです。


それでもまだ奇跡を信じて、母がまた退院してこれるんじゃないかって、一緒に歩けるんじゃ無いかって、思っています。

母が生きているうちは、信じ続けたい。



母と5年後も笑っていたい。