「時がとまる」

そこには、死が。



生きながらに

「時をとめる」

そこには愛が。



愛する対象がなくなった時
自分の意志で

自分の時をとめてしまうのは、

愛していたが故に。

そして、
今も、愛するが故に。




恋を失って、

時をとめることもあっただろう。


心凍る出来事で

時がとまってしまったこともあっただろう。


出会った人との

永久の別れによって、

時をとめたこともあっただろう。



時をとめたり、
進めながらの、「今」。



その繰り返しのなかで

時は愛と

「同じ」と知る。

最近知ったこと。


人に焦がれる時、


そこには「寂しさ」があった。




人を好きになるとき、その人の持つ「寂しさ」に惹かれた。


その寂しさを満たそうとする自分が


好きだった。




相手が寂しさを満たされ、


ほんの一瞬の満ちた顔を見ることに悦びを感じていた。


目のくらみそうな幸せを感じた。


(それは愛じゃない)


(それは相手のことを優先していない)


(相手を理由にして、食べてしまっていたのさ)




時に関係は


依存と言う言葉や共依存の要素が強かったと思う。


だから、続かなかった、


お互いに自分を優先したのだから。


だから、私が好きな人は「寂しさを持つ人」だった。




同じ深さの寂しさを持つ人が


恋人だったのかもしれない。


類は友。




なぜ、惹かれた?


それは、同じものを持っているから。


同じものは寂しさだけじゃないけれど、


同じものが破滅的なものでなければいい。


同じものが、幸せへ向いていればいい。



寂しさを愛する、自分自身のファクターに気づいてあげればいい。


自分の寂しさを連鎖させなければいい。


朝、ふと、カーラジオで聞いた北のほうのうた


古い口伝えのうた



心に残ったひとふしは


「楽しいことも、悲しいことも見上げれば花」




そうだね、起こることはどれも花


命をふりさけみれば花なんて


その風景はきっと百花繚乱




高い青い空に、白と淡い紅色の花びらが


燦々と風に舞う様子が心に浮かんで




車の窓から外を見れば


青い空とおひさまと緑の山際と広い池



ここでも見上げれば花と


いつもより軽やかにアクセルを踏みました。