もう36年も前の出来事だったんですね。
あの事は今でもはっきり覚えています。
長尾清秀さんは、あの事件が転機でりんご行商から「ナカショウ」を起業し、青森県弘前市内にりんご移輸出商店を構え、業界に名を連ねる存在になりました。
当時の被害総額は40万円だったそうですが、結果は良い宣伝費になった形です。
数年前にナカショウは廃業、津賀野にあった社屋は別の農業関連の会社に変わってしまいました。
あの時のリンゴは、私が当時勤務していた組合の冷蔵庫から出荷したものです。その担当者が私でした。
事件の概要は以下の通り。
昭和59年4月23日、大阪・京阪天満橋駅前。青森からトラックで行商にきた人が、はるばる運んできた赤いりんご80箱をトラックの荷台に積んで売っていた。
桜の季節で、駅前は近くの桜の名所、造幣局の 「通り抜け」 に訪れた人たちでにぎわっていた。
事件はその人が、電話をかけるため目を離したわずかなすきに起こった。
リンゴの山に、「試食をしていただいて結構です」と垂れ幕がしてあった。それをみた人が、つい一つ、手にした。
「リンゴはただやで」ということになり、1個どころか何個も手にする人が出た。
「押さんといて」。群集心理に火がつきトラックの前には身動きもできない人だかりがした。興奮してかリンゴの山にのぼり、人がきを目がけてボンボンとリンゴを投げる背広姿の男の人もいたという。
千数百個のリンゴはアッという間になくなってしまった。
かえってきた青森の人は、ぼうぜんとした。最初は何が起こったかわからない。
被害総額40万円。
「いまさら警察に訴えてもしかたがない」と被害届も出さなかったが、マスコミに「大阪は本当に怖いところ」ということばを残して帰った。
大阪新聞は、事件の発生から3日後に「大阪の良識を取り戻そう」キャンペーンを展開した。これが当時の佐藤編集局長の発想である。
「いまからでも大阪の良識を取り戻しましょう。持ち帰ったリンゴの代金を支払うのも反省の証の一つです」と代金の支払いや寄付を紙面で呼びかけた。
キャンペーンは大きな反響と共感を呼んだ。
「天満橋のサラリーマン」を名乗る人からは「事情が分からず、4個拝借しました。申しわけありません」と代金の倍額の2千円を届けてきた。「大阪のイメージダウンになるのはたまりません」と10万円をボンと寄付する団体も現れた。
青森出身の舞踏家・江口乙矢さんも3万円を寄託。寄金は31万2500円に達した。
現地の希望に沿い、交通遺児のために役立ててほしい、と編集局長が弘前市役所を訪れて、大阪市内の幼稚園児が描いた200枚のリンゴの絵とともに福士文知市長に託した。当の被害者からは、「大阪人の真心に触れることができました」と手紙が届いた。
大阪、弘前の両市が市制100年を迎えた平成元年からは、府内の福祉施設へのリンゴの寄付がスタート。そして平成9年も10月23日、市内のホテルで金澤隆弘前市長から大阪新聞社に20ケースのリンゴが託された。
新聞記事より
【大阪】二十三日午後、花見見物でにぎわう大阪の桜の名所、大阪造幣局「桜の通り抜け」近くで、リンゴ路上販売業者が電話をかけに行ったわずかのスキに、約2㌧、八十箱のリンゴが通行人に次から次に持ち去られる”事件”があった。
「試食していただいても結構です」の看板に、通行人が群集心理にかられ持ち去ったらしいが、青森から来た業者はあまりのモラルの低さにあ然とし、警察に被害届も出さず、しょんぼり引き揚げていった。
ご難にあったのは弘前市清原二ノ一〇ノ二十九、リンゴ販売業長尾清秀さん(三六)。
長尾さんはこの日正午すぎ、造幣局の花見に出かける客でにぎわう大阪市東区京橋二ノ三ノ五の天満橋南側付近の路上に、二㌧トラックに満載してきたリンゴ約八十箱(約四十万円相当)の荷を下ろし、路上販売を始めた。
午後零時四十分すぎ、電話をかけに行き、約十五分後に戻ってみるとほとんどが空箱。
この間、百人ぐらいの通行人が、路上のリンゴに群がり次々と持ち去っていった。
道路の反対側で雑踏警備にあたっていた大阪府警東署員が異常に気付き駆けつけたが、リンゴはほとんど持ち去られた後。
長尾さんは「”試食していただいても結構です”の看板を出していた私が悪かった」とうなだれるばかり。
同署員がしきりに被害届を出すように説得したが、応じず、午後四時すぎまでに、残ったわずかのリンゴを売りつくし、弘前へ戻っていった。