1999年子どもの幼稚園受験が殺人の動機となる事件が起き、「お受験殺人」というネーミングで話題になり、またこれがきっかけで「お受験」に関するマスコミの報道が急増した。
これは、教育的な問題というよりも親同士の人間関係の問題や社会的な問題として扱われることが多かった事件で、マスコミによる報道も母親同士の人間関係等に焦点をあてた記事が多かった。「お受験」自体が教育問題でないということはありえないのだが、他の要素に焦点をあてた方が記事が書きやすいのだろう。
 そうした今までの報道も振り返りながら、「お受験(小学校受験・幼稚園受験)」及び「お受験教育」というものがどんなものなのか、そしてこの事件とどう関係があるのか見ていく。

「お受験」とは?

お受験というものがわからないと、「この事件の背景」及び「なぜこの事件が非常に注目されたのかという理由」などがわかりにくいので、主に「お受験」という言葉にあまりイメージがわかないという人向きということになるが、この言葉に関する一般的な知識・イメージから入っていく。
94年に「スイート・ホーム」というテレビ番組放映されてから「お受験」という言葉は一般的に定着した。これは、母親(山口智子)と子どもが塾の先生(野際陽子)に鍛えられる様子をコミカルに描いたドラマで、当時話題になり高視聴率を上げた。
ただし当事者にとっての現実は、お受験というものがそんなにコミカルな楽しいものではなく、もっと厳しいものであることが多い。
時々、お受験をめぐって受験塾の経営者が親から大金をだましとり詐欺で訴えられるという事件が話題になるが、これも親がエキサイトしてなりふりかまわず子どもを有名小学校・幼稚園に合格させようとしている状況があるからこそ起きることである。
「お受験界」において一番マスコミで話題になる学校は、なんといっても慶應幼稚舎(名前は幼稚舎だが小学校である。念のため…)だ。慶應というネーム・バリューがある上にスターが揃っている。特に有名なのは、(報道がなされた当時の)生徒の親の、郷ひろみ・二谷百合恵・森進一・森昌子・古館伊知郎・三雲孝江などで、週刊誌の材料としてかっこうのメンバーである(最近では、金子郁容舎長もちょっとした有名人になっている)。
そして、慶應幼稚舎を頂点とした各有名小学校・幼稚園を受けさせる場合、ほとんどの親は子供を塾に通わせる。「伸芽会」「桐花教育研究会」「にっけん」などそれなりの実績をあげている有名大手塾もあるが、本当に合格率が高いのは個人経営的に運営しているちいさな個人塾である。自宅やマンションの一室で寺子屋形式で教えているところが多く生徒数は多くて二十人、平均するとだいたい十人前後だ。子ども1人1人に全精力をそそぎ込む熱意と大手塾ではできないきめ細かいサービスが売り物である。
 お受験に挑戦する場合、まずこの個人塾に入ることが大切である。郷ひろみ夫妻(当時)の子どもが通っていた老舗の「双樹会」をはじめ実績のある個人塾はいくつかある。ただし、たとえいい塾の存在を知っていたとしても、なんの紹介もなく「うちの子どもを入れて下さい」と言っても相手にされないことが多い。誰かしかるべき人に紹介者になってもらって、一緒に先生のところまで挨拶に行き、礼を尽くしてお願いしなくては入塾はかなわない。
入塾後に勉強する内容は、三歳の子どもに「お洗濯」や「お茶出し」をやらせたり、四歳の子どもに三つ指をついて「おじゃまいたします」と挨拶させたりというようなことが多い。躾というより人格改造という言葉の方が適切な雰囲気で、客観的に見ていると不思議で首を傾げたくなるような教育内容もあるのだが、塾の先生や親は大真面目である。
また、塾だけでなく有名小学校受験につよい幼稚園というのもある(従ってそうした幼稚園に合格させるためのお受験というものも存在することになる)。幼稚園でお受験に有利になるようなことをやってくれるのなら小学校をお受験をさせようという親にとっては当然その方がいいから、そうした幼稚園に入れようということになる。郷ひろみや森進一の子どもが通っていた「松濤幼稚園」やカトリック系の「枝光会」、芸能人の子どもが多い「若葉会幼稚園」などの私立幼稚園が有名だが、現在のところは小学校のお受験のためには幼稚園より塾の方が重要である。
ところでこの殺人事件の起きた文京区は、お茶の水付属女子大付属幼稚園、東京学芸大学付属幼稚園という国立幼稚園もあり、都内屈指の文教地区である。国立は私立のような高い入学金・授業料がかかるわけではないので、受験層もやや庶民的だ。親心として「とりあえず国立幼稚園を受けさせてみよう」という気になるのだろうか、これら国立幼稚園は非常に人気が高く倍率も20倍を超えることが多い。
 犯人の山田みつ子や被害者の母親もこの仲間に入るのだが、こうした国立を受けさせる母親のことは「とりあえず国立お受験ママ」などと呼ばれることもある。「とりあえず国立お受験ママ」というのは、一言で言うと、子どもを個人塾にいれたりして私立を受けさせる家庭ほどにはいわゆる「社会的階層」が高く裕福ではないが(または、そこまでの上昇志向なり意欲なりはないが)、そこそこ子どもの進学等に関心を持つ程度のゆとりはあるという階層に属する家庭の母親という意味である。

二人のお母さん

犯人の山田みつ子と、被害者の母若山さんは家族構成がまったく同じで、事件当時5歳の長男と2歳の長女がいた。5歳の長男はともに私立音羽幼稚園に通い、長女は同じ児童館の育児サークルに入っていた。
 二人の自宅は同じ文京区音羽の音羽通り沿いにあり、200メートルしか離れていなかった。しかし、殺された春奈ちゃんの家族が住んでいたのはバブル期に億ションと言われた高級分譲マンションであり、父親は都内の資産家の御曹司。山田みつ子の家族が住んでいたのは家賃12万円の2DKマンションで、夫は自宅近くの寺で副住職をしていた(副住職といっても、いわゆる「雇われ副住職」)。
「階層」という言葉を使うならば、「とりあえず国立お受験ママ」の中でも若山さんはもう少し上昇志向が高ければ有名私立小学校に子どもを入れもおかしくないあたりの階層に属し、山田みつ子は、個人塾に行かせたり有名私立小学校を目指すのは無理があるというまさに「とりあえず国立」という表現が切実に聞こえるような階層に属していた。
 幼稚園では、母親同士の派閥やグループのようなものがいくつかあるのが普通で、当時の音羽幼稚園にも若山さんや山田容疑者が参加する4~5人のグループがあった。幼稚園近くのファミリーレストランでそのグループはよく食事をしていたが、山田みつ子は、いつも別の席で子どもたちの面倒を見、ほかのお母さんは自分たちだけで楽しそうにおしゃべりをしていた(「週間宝石」1999年12月16日号)。
 また、ある時若山さんは山田容疑者に「あなた、少し身なりに気をつけた方がいいわよ」と言ったこともあった(「週間文春」1999年12月9日号)。
 若山さんは資産家の御曹司の妻で、美人でセンスがよくて社交的・都会的。ある意味では「文京区音羽」とか「お受験ママ」というイメージによく当てはまる人物だった。山田容疑者は、子どもの教育上の理由とか、ステイタスが高そうな場所だからとかいう理由ではなく単に夫の仕事場に近いからという理由で文京区音羽に住んでいただけの、おとなしくてごく普通の感じ人物で、「最初はお茶の水付属と学芸大学付属の制服の区別がつかず周囲から馬鹿にされた(「週間文春」1999年12月9日号)」というエピソードも紹介されている。
 こうした背景を考えると、山田みつ子にとってはこの若山さんから言われた言葉は心に突き刺さる一言だったのかもしれない。直接このことを指しているのかどうかは不明であるが「都会もんはきついわ」と実家の母親に愚痴をこぼすこともあった。山田みつ子は事件の後の供述でも「若山さんの方が裕福でうらやましかった。最近自分の娘が不憫で、春奈ちゃんを見ているのが辛くなった」と述べている。

事件

受験の結果は、若山さんの方は、春奈ちゃんがお茶の水付属幼稚園に合格。兄も東京学芸大学付属武派や小学校の一次に合格。それに対し、山田家の長男・長女は二人とも抽選でもれた。
 この抽選もれの結果がわかった後で、若山さんから「幼児教育が足りなかったんじゃないの」と言われる。好意的にみれば。「2年後までにしっかり教育してまた受けさせればいいじゃないの」といったことが言いたいのではないかという解釈もできるが、おそらく山田みつ子にはとうていそのようにとることはできず、馬鹿にされたとか辱めを受けたとかいうふうに感じたのではないだろうか(実際、抽選でもれることと幼児教育が足りてたかどうかは全然無関係である)。
 そのことがあった後、山田みつ子は春奈ちゃんを公衆便所に連れ込んで、マフラーで絞殺する。遺体はバッグ(あらかじめバッグを準備していたので計画的犯行である)に入れて、静岡の実家に行き、実家の裏庭に埋める(どうしてわざわざ埋める場所を実家の裏庭にしたのかは不明)。そしてすぐに自首し、殺人・死体遺棄容疑で逮捕された。
この事件は社会階層の違いや性格の不一致などによる母親同士の葛藤・軋轢が直接の犯行の原因であることは、たぶん間違いないだろう。ただし、なぜ殺人という極端な行動に走ったか?ということを考える上では、「お受験」をめぐって母親たちがある意味で異常な状況に取り囲まれていることも見逃せないと思う。もちろんお受験がすべて悪いといういことにはならないだろうが、この場合おいてはお受験のマイナス面がもろに表面化し、悲劇的な結果を招いたということが言える。

参考文献
○片山かおる「「お受験界」には魔物が棲む」『諸君』1997年4月号
○「総力取材「お受験」殺人の深淵」『週間文春』1999年12月9日号
○「“お受験殺人”母親たちの闇!」『週間宝石』1999年12月16日号