いまとなっては呼吸するくらい自然にラジオにおたよりを書くようになりました
昔はラジオに投稿するなんて行為はどこか畏れ多いというか、自分の声なんぞに如何ほどの価値があるんだろうなどという諦念に近い感情があったなあと振り返って思います
メールが主流の時代に生まれたこともあり、メールで投稿するわけなんですが、採用されないうちは「自分のメールは届いているんだろうか」とか「そもそもパーソナリティーはこの現実上に存在するのだろうか」みたいなもはや実存を疑い始める領域に突入しました
そんななかで初めておたよりが読まれた日なんてのは精神的赤飯というか、「メール届いてたんだ!」とか「ラジオのパーソナリティーは実在するんだ!」みたいな喜びの感情が走り抜けたわけです
ラジオネームを読まれたその瞬間既に、自分の感情と外の世界が接続する音が聞こえた気がするわけです
その音に気をとられて、どんなトークをパーソナリティーがしていたのか聴けていないこともしばしばでした
いまはおたよりを読まれることに慣れたので、トークの推移に耳を傾けられるようになりましたが、ああいう感覚は尊いものだったなと思います
逆を返せば慣れてしまって切ないな、という側面もあります
そもそも、なぜ慣れるほどに読まれるまでメールを送っているのだろうと自分に対して疑問を抱くこともあります
無論尋ねたいこと、知りたいこと、話したいことがあるのは事実なんですが、それだけじゃ自分のかたちを表現するには物足りないなあと
色々考えた結果、とどのつまり「届くことの確認」なんではないかと考えています
日頃生きていて、近くにいる人にでも「全然伝わってないなー」みたいな感覚に苛まれることがあります
言葉を尽くそうとしてもそもそも聞く耳がご用意されてないというコミュニケーション落選状態
転売ヤーも真っ青
ラジオのパーソナリティーという人たちはもれなく「聴く用意がある人たち」です
無論、あまりにもな内容が事前に構成作家さんといったスタッフに弾かれているからというのもありますが、「こちらの話を聴いてもらえる」というのは安心感があります
メールによって番組に影響を及ぼすことへのある種の快感、うまいこと書いたったという満足感、単純なトークの面白さなど求めるものは数あれど、芯の芯は「ただ聴いて、届いたことを確認したい」んだろうなと自己分析をしています
正解かどうかは知りませんけどね
あと思うのは「ボクの声に価値があるのかどうか、それを決めるのはボクじゃない 」ということ
出したいなら出すしかない、それに尽きるなという
おたよりしよう、伝えようという感情の続く限りは何百バイトかの文字列生産をするのだろうとここに整理して終わります
おわりだよー