クラウディアさんの願い事
かつてギデオン伯父さんの臨終の日に見かけたのにもかかわらず、今まで記憶の片隅に追いやられていた黒い天使。この時アドルはその存在が【死】を象徴する物なのだと気づいたのです。
『クラウディアさん…』
大叔母の肩に浮いて見える黒い天使。その天使のことを大叔母に尋ねて良いものか…いや、それをしてはいけないと本能で悟ったアドル。
黙り込んでしまったアドルにクラウディアさんは優しい眼差しを向けて、小さく手招きをしました。そして、
『アドル君…そこの引き出しに、鋏と、リボンがあるから、取ってもらって、いい…?』
『うん』
アドルは部屋の隅にある文机の引き出しを開け、言われた通り鋏と紫紺色のリボンを取り出し、クラウディアさんの枕元に置きました。
するとクラウディアさんはゆっくりと上体を起こし、自分の髪を片手でひとつかみし、リボンできつく縛ると結び目の少し上から鋏を入れて切り落としたのです。
大叔母の突然の行動にあっけにとられたアドル。

『アドル君、おばさんの…最期のお願いを、聞いてもらえる?』
あまりのことにびっくりして硬直しているアドルにクラウディアさんが頼み事をしていました。
『頼み事?』
『そう…。アドル君、おばさんが死んだら…この髪の毛を、ニヴの丘からドルム山に向かって撒いてほしいの…』
まさかクラウディアさんから彼女の死の予告を聞こうとは…。
『クラウディアさん…死…って…どうして…』
『アドル君と、こうして会えるのが、今日が最期だからよ…気づいていたんでしょう?今おばさん右肩には、黒い天使がいるのよね?』
アドルは何も答えられずただ俯くばかり。でも目元に滲む涙が答えを雄弁に物語っています。
クラウディアさんは髪の毛の束をそっとアドルの前に差し出し、話を続けました。
『わたくしはね、山岳シュワルツ家に産まれたけど、結婚して掟通りに山を下り、今では街で暮らしていた時間のほうが長くなってしまった…。でもね、心はいつも、ドルム山に…山岳兵団に向いていたの…。それでね、せめて、せめて、わたくしの一部を山に帰したいって…ずっと思っていたのよ…。この髪の毛は、わたくしの分身。これで、懐かしい故郷に帰れるのよ…。』
『そんなだいじなお役目、僕でいいの?』
『アドル君だから良いのよ…わたくしの、人生で最後の、だいじな大事なお友達…。だからよ。』
自分を【大事なお友達】と呼んでくれたクラウディア大叔母さん。自分を信頼しての頼み事であるのは流石のアドルでも理解出来ました。だから、断わる理由はありません。
意を決したアドルは差し出された髪の毛の束を受け取りながら、クラウディアさんを安心させるように力強く頷きました。
『わかった…!クラウディアさん、僕に任せて…』
遺言〜クラウディア・シュワルツからアドル・ガイダルへ
『アドル君…こっちへ、貴方の顔を、よぉく見せて頂戴…』
アドルが言われた通り顔を近づけると、クラウディアさんは手を伸ばしそっとアドルの頬に触れました。その手は…指は少しひんやりしていて震えており、かつて自分を手当てしてくれた時の力強さは感じられません。その事実がクラウディアさんの生命の灯火が弱まっていることを感じさせます。

『…アドル君を見ていると…ルドヴィカ姉さんとヴィルジニー姉さんを思い出すわ…。』
『ヴィルジニーおばあちゃん…。えと、ルドヴィカって誰?』
『ルドヴィカ姉さん…わたくしとヴィルジニー姉さんの姉。アドル君の、もう一人の、大伯母さんね…』
元々アドルは自分を通して祖母の話をされるのが嫌いでした。でも今は不思議と気になりません。クラウディアさんが祖母の話をするのはこれが初めてだということと、アドル自身が心身共に成長し、きちんと昇華する事が出来るようになったからでしょう。
『わたくしが姉達と一緒に暮らせたのはほんの少しだったけど、嫁いだ後も何かと気にかけてくれて…二人共、優しかった…アドル君の優しさはきっとヴィルジニー姉さん譲りなのね…』
『…』
『でも、アドル君は…姉さん以上に芯が強く…自分の未来を、誰にも頼らずに切り拓く強さを持っている…もしかしたら、その強さと優しさのせいで、辛い思いをするかもしれないけど…。』
『クラウディアさん、もう喋らないで…。』
苦しそうに語り続ける大叔母の姿が痛々しくて、アドルは彼女を止めようとしましたが…それでもクラウディアさんは続けます。
『いつか、自分の進む道に迷ったり、誰かに裏切られたり、夢を見失う事があるかも…しれない、でもねアドル君…。
貴方には、両親が、兄妹達がいる…お友達も、いつかは、恋人もできるでしょう…。
その周りの人達と、たくさん話して、悩んで、いっぱい、いっぱい考えて…そうしたら…進むべき正しい道が見えるはず…。だから、自分の決めた道を…歩む事に悩まないで…心に、思いに、正直に…』
『うん…うん!わかった、わかったからクラウディアさん…!』
クラウディアさんがアドルの目を見つめながら優しく微笑み、アドルの目元の涙を指先でそっと拭い取ったその時。
夜一刻を迎えたのです。

