Karma/カルマという言葉をご存知でしょうか?
元はサンスクリット語からきており、仏教やヒンズー教でよく耳にし、日本語で業・因縁という意味です。英語でよく"Good karma(良い業)"や "Bad karma(悪い業)"として使われます。
わたしカルマは存在し、この神秘的な自然の中で、人に悪いことをしたら悪い業がそして良いことをしたら良い業が跳ね返ってくるものだと信じてやみません。幸福論を説いた本で、はね返しの法則などと名付けられているものもありますが、まさにその表現通り。

今日はある人の卑怯な行為が明るみになってずーっとカルマの事を考えてました。わたしは当事者ではないので特に考える必要もないのですが、こんな時思うのです。こうやって客観的に見ることができる状況というのは自分に関係がなくても、何かのサインであると。その何かとは、

"他人のふりみて我が振りなおせ”

今でも後悔している過去の業を(つまりは悪い業)を思い出し、あぁあの時あんな事言ってしまって誰々を傷つけてしまったなぁ。そしてまたあんな事を言われて傷ついたなぁ。なんて。でも自分という人間は本当に身勝手で、傷つけられた事はよく思い出せるけど、傷つけた事はほーんとたまにしか思い出せない。逆にいいことだと、誰々にどんなことをしてあげたことはよく覚えているのに、されたことはしてあげた事より思い出せない。ちゃんと自分の非を認めてちゃんと謝れる人は、悪い業の跳ね返りの大きさを縮小でき、そして感謝の気持ちを忘れない人は良い業を拡大できる人なんじゃないか。

そんなことを考えてしまいました。

ちなみに、こないだとある会社のとある部署をマネッジするマネージャーがこんなことを言っておりました。
「わたしの上司は私の功績を認めてくれていない。」
この時に思ったのは、"そんな時、あなたちゃんと自分のスタッフの功績認めてあげれてる?もしかして自分の功績が認められていないことに頭がいっぱいで、自分のスタッフがどんなに頑張っているかそんなんちゃんと見てあげる余裕ないんじゃない?その上司はそんなあなたの余裕のなさから功績を100%認めて上げることができないんじゃない?”

跳ね返りの法則が普遍だとしたら、"足りない”と感じているのは”与えていない”証拠ではないか、たとえその対象が違っても、とも思うのです。

久々に語ってしまった(●´ω`●)ゞこんなに長い文章を誰が読んでくれるんだろうか?いやぁもう自己満足の領域です。

↓さてこの画像は住んでいるコンド系列のジムからの風景です。今日はいつものジムではなく、こっちのジムでワークアウト。

{F768761D-8518-46F8-9B31-E1DED147E114:01}