放置していたブログをひっさびさに書く気に。

1日一冊ペースで長野まゆみさんの著作を消費してしまう。作家さんが何ヶ月もうんうん悩み苦しんで生み出したものを、私たちはペロリと一瞬で頂いてしまう。鑑賞とは大変贅沢な行為である。一時期は自分も創り出す側になりたいと思っていたこともあったが、鑑賞という行為も、立派な創造であることに気付きつつある。私は、日々の生活を、人生を、自分の美意識や感性によって様々な芸術から選択して彩る。これは立派な創造である。おかげで私の生活は豊かな彩りに満ちている。

『野ばら』 長野まゆみ著


ひたすら無為。


でも、正しい、なんて何の意味もない。


無為であっても、いいのだとこの話は教えてくれる。

なんの躊躇いもなく、無為を楽しめることこそ、自由に、大人になることだと思う。

長野まゆみ著  『新世界』


たまたま開いたページに出てきた登場人物が、知っていた人に似ていたので

それが感情移入のきっかけとなり、5巻を読み通した。


植物のように、イノセントで、しなやかで、だけどぎこちなく、未成熟。

淡々と、クールな長野まゆみの登場人物たち。


訳が分からない、めちゃくちゃな、架空の世界。

それでも小説というものは成り立つものなのだと知った。

ストーリーが理解できないけど、それでも雰囲気だけで読めてしまう。


雑然とした都会の喧騒、古く、小洒落たアパートの中で珈琲を入れる姿。

一方で、果てしない砂漠とマンダリン色の無数の蝶々の対比。


長野まゆみは小学校の時から知っていたけど、

その頃はまだ長野まゆみの良さを理解できる年齢ではなかった。

要約すると、

やさしさとはかつては相手に親身になって接することを意味したが、

近年の若者の考える「やさしさ」とは、相手に深入りしないことなのだという。

また、絆には信頼関係である〈きずな〉というポジを持つ反面、束縛である〈ほだし〉というネガが必ず付随する。


この映画をもっと早く観ておけば、傷つかずに済んだ恋もあったなー。

過去を振り切り元気になるために観たのに、出演していた俳優がまた別の元彼に似ていて、思い出して少し落ち込んだ。

ティツィアーノの《受胎告知》に惹かれて国立新美術館にて鑑賞。


キリスト教の宗教画が多かったのだけど、あまり心に響かない。

昔は聖なる雰囲気に恍惚となっていたのにな。

厭世主義的だったからこの世の外を描いた宗教画が好きだったのかも。

今はそうではなくなった。


これまで私が見てきたキリストを抱く聖母子像って、

ほとんどどれも母があんまり優しい感じがしないのはなんでだろう。

顔が無表情で、目が怖い。もっとにっこり微笑んだ表情を描けばいいのに。

サントリー美術館のエミール・ガレ展に行ってきた。

ガレ、自然をガラスの中に閉じ込めた、芸術の数々に感動した。

たとえばスワロフスキーはその透明度と虹色の光のキラキラした反射が売りで(それはそれで好きだ)、

ルネ・ラリックは、(たしか両生類や昆虫の作品もあったように思うが基本的には)

美しい花や女神など、穢れを排除した理想的な美しい世界を追求しているように見える。

だけどガレは、汚れた土の色も使う。カエルやバッタや蛾やコウモリやオタマジャクシなどの一般的に人々に好まれないモチーフも多様する。そこが商業主義に基づいてないことが察せられて、ガレを単なる商品から芸術作品たらしめていることが分かる。

ガレからすれば、自然に美醜の区別はないのだろう。腐った落ち葉や濁った水溜りも、きっとあるがままで完璧に美しいのだろう。ガレが感受したネイチャーの本質のようなものをガラスに閉じ込め、日常生活の中に自然を存在させようとする。森の中で、植物と、昆虫と、一緒に暮らしているように、あるいは海の波を感じながら日々を生きることを可能にするガレの芸術は素晴らしい。

 

「木立」のような作品が部屋にあったら、しーんと静かで孤独な奥深い森の中にいる気分になれる。「枯葉」は、いつの秋かに見た森の木漏れ日のよう。「たまり水」は、モネの水連の池をそのまま持ってきたように、滾々と湧き出る新鮮な生命力そのもの。

 

「ひとよ茸」ランプが夜に枕元にあったら、森の夜の小人になった気分になれるから、本物とは言わない、パチもんでいいから似た作品があったら枕元に飾りたいなと思った。