『あなたの描く光はどうしてそんなに強く美しいんでしょう』

藤子・F・不二雄を「先生」と呼び、その作品を愛する父が失踪して5年。高校生の理帆子は、夏の図書館で「写真を撮らせてほしい」と言う一人の青年に出会う。戸惑いつつも、他とは違う内面を見せていく理帆子。そして同じ頃に始まった不思議な警告。皆が愛する素敵な“道具”が私たちを照らすとき――。


キューピッドの矢
この矢が当たった人は、矢を放った人をたちまち好きになってしまう。矢を取ると、もとに戻る。


国民的漫画と言っていい、「ドラえもん」を知らない人なんていないだろう。誰でも小さい頃に胸をワクワクさせ、泣いたり笑ったり怒ったり、感動や教訓をその偉大な漫画から得たはずだ。そして、もし、ひみつ道具があれば……なんて妄想や願望に浸っていたはずだ。

高校生の理帆子は、冷めた少女だった。高名な写真家だった父親が突然失踪し、母親は病に伏せている。そんな境遇からか、彼女は寂しさから人と係わりを持つことを期待しながらも、周囲の人たちとは微妙に一線を画す立ち位置に存在していた。常に傍観的な空気を身に纏い、他人に心を開くことは少ない。それが彼女の個性というアイデンティティ、”少し・不在”だった。

彼女は、藤子・F・不二雄が語った”SFの定義=すこし・ふしぎ”という言葉に感化され、物事を整理して考えるために、常に”スコシ・ナントカ”という表現を意識するようになる。
彼女の母親は”少し・不幸”、上辺は出来杉くんみたいだがカワイソメダルを持った彼は”少し・腐敗”。友人は、”少し・Free”、”少し・Finding”。他に”少し・不足”、”少し・フラット”など……周囲の人たちを彼女は冷静に査定する。

多感な時期の少年少女は、理念や考えも乏しく刹那的な危うさを持ち、物事を分かっているようでいて本質は何も理解していない。他者ばかりを気にして、背伸びをしてみせる”少し・不安”だ。
彼女には、のび太にドラえもんがいたように、誰かが便利な道具をくれたり、本当の意味で内面的に共感し、親身に話を聞いてくれる人が身近にはいなかった。というよりも、優しく接してくれる人は多くいたのだが、彼女自身に周囲を頼る意識が希薄していた。だから、彼女は間違いを起こしてしまう。状況を甘くみて舐めているから、取り返しの付かないことが起きてしまう――。

『今、どこの海の底で眠っていますか?』


でも、やはり彼女には、小さい頃から大好きな、藤子・F・不二雄先生のドラえもんがいつも付いていてくれた。だから彼女は危機が訪れても、何の心配も無いし、大丈夫なんだろう。
この本は、そんなドラえもんへの愛情で深く満たされている。藤子・F・不二雄先生に対する尊敬と感謝の気持ちが一杯に詰まっている。

誰でも、ドラえもんの本を読んだ記憶があれば、いつでもどこでもドラえもんは助けてくれる。おそらく、そういう約束を、誰もが小さい頃にドラえもんと交わすのだろう。それがドラえもんの懐かしさと優しさだろう。その気持ちを忘れなければ、心豊かな優しい大人に成長してくれる。それが藤子・F・不二雄先生の想いなんだろう。
そんなドラえもんのことを決して忘れることはないし、いつまでも絶対に忘れない。こんなことやあんなことができたらいいな、と夢に想う。そして――とっても大好き、ドラえもん♪


『本による救いの形を論じるのって、ホラー映画による青少年への悪影響を嘆く風潮と表裏一体だから、あんまり好きじゃないけど、それでも本当に面白い本っていうのは人の命を救うことができる。その本の中に流れる哲学やメッセージ性すら、そこでは関係ないね。ただただストーリー展開が面白かった、主人公がかっこよかった。そんなことでいいんだ』


凍りのくじら

辻村 深月
講談社 \820



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