ですが、剛腹な父親ジョセフ・シニアーも゙こうしました疑惑を知ってか知らずか、第2次世界大戦中に起こった悲劇の1つは忘れられて行きました。フォレスタル海軍長官は、終戦直後に進水しました大型駆逐艦にジョセフ・P・ケネディ・ジュニアの名を与え、父親のジョセフ・シニアーに進水式のテープ・カットの機会を与えました。次いでに書くと1962年キューバ危機の時に、この艦は、ソ連船と最初に接触しまして反転命令を与えました記録を残しています。
 ジョーの死後ケネディ家には1連の死が見舞いました。その2週間後にはキャスリーンの夫がノルマンディで戦死します。そして未亡人となりましたキャスリーンも゙1948年飛行機事故で死にました。
 1家の希望は次弟のジョンに受け継がれます。ジャーナリスト志望でしたジョンは兄の死後、父親に呼ばれ、ジョーの目指していました道を歩く様要請されます。こうして政界に入りましたジョン・F・ケネディが大統領の座に付くのは、兄の死から17年後の事であります。

 1963年秋、テキサス州フォートワースに住んでいましたウイリーの遺族に1通の招待状が届きました。
 大統領が遊説旅行に立ち寄るので、ホテル・テキサスで朝食を一緒にしたい、という申し出でした。ウイリーの死後、ケネディ家では遺族の生活を心配し、2人の息子が大学に進む学資を補助していました。
 その日、ジョンは父の顔を知らない18歳の末娘カレンを抱くようにしまして「お嬢さん。君の事はいつも気にかかっていました。どうか覚えていて欲しい。君のお父さんは、私の兄と同じ様に英雄でした。2人共本当に素晴らしい人達でした」と語りかけました。
 ケネディがダラスの街角で暗殺者の銃口に倒れましたのは、その日の午後の事でした。