起伏の少ない淡々としたストーリー展開。

 年を重ねるにつれて、人間誰しも「自分はこの程度の人間だろう」ということが、なんとなくわかってくるもの。それは涯分というか「身のほど」であり、それをわきまえ、その上で行動することが、この作品の中で主人公(女性)の弟の彼女が言う「間違えないこと」になるのだろう。
 でも誰しも、時にその「身のほど」とは関係なく、何か衝動に突き動かされることもある。「身のほど」を超えた衝動に突き動かされた弟の彼女を見て、主人公の心も変わっていく。

 「身のほど」を超えない行動を取っていれば、その「身のほど」に応じた幸せを手に入れることができるかもしれない。でも、それで本当に満足できるのかという問題が一方である。作者そのことを書いているように思う。
 事実、ストーリー中には、主人公が高校時代にとある男子に告白され、「自分はこの程度か」とショックを受けるエピソードが挿入されている。主人公は、告白されたことで気づいてしまった自分の「身のほど」を受け入れずに拒絶する。

 そんな凡庸な主人公が自分の住む町の広場やバス停、大通りの名前をリスボンのそれに准えて呼んでいるのも面白い。「自分の住む町」という現実に、「リスボン」という理想を重ね合わせる行為は、粉飾を纏うことで、自分の「身のほど」を見ないようにしたいという主人公の意志を象徴的に表しているようにも思う。
 自分以上の「身のほど」の他社が周囲にいるからこそ、自分の「身のほど」を認識しても、その「身のほど」相応の幸せに満足できないことはありそうなことではないだろうか。そういう場合、より高次の「身のほど」を持つ人を羨ましくも妬ましく思うんだろうが…。
 だから主人公が、自慢の弟に冴えない彼女がくっついているのを見て、彼女に対して「あなたを弟の彼女として認めない」と言って捨てるのは、つまり弟と彼女の「身のほど」の釣り合いというかバランスが崩れているように感じたからで、ここでも上述した主人公の思考規範が発現している。まぁある意味で、こういう考え方は「つつましい」と言えるのかもしれないが…。
 実際問題、「なんで、あいつとあいつが?」みたいな組み合わせのカップルも世の中多いけど、この「なんで、あいつとあいつが?」という疑問を発すること自体、我々が「身のほど」を重視していることの証拠じゃないだろうか?で、作者はそのことを意識して主人公を書いてるんだなぁと解釈しました。

「身のほど」は変えられないけど、超えられるとでも言いましょうか…。
結局は考え方の問題。もっといえば「身のほど」に行動を規制されるか否かという問題かと。

考えがまとまらないのでそのうち加筆修正します。

不定期に書評をつらつら書いていくつもりです。