ミオソチスの手記
そのうち、夫のお母さんが、毎日のように家に来て、熱心に結婚するように勧められました。
会社にいた時は、周りが男の人ばかりだし、映画やお茶に誘う人は何人かいましたが、父がとってもうるさいし、同じような感じの人が多かったので、みんな断っていました。でも、夫のお母さんはとても良い人だったので、この人の息子なら、と、つき合ってみる気になりました。
その年のお正月、初めて振袖を着て、妹相手に羽根つきをしているとき、お母さんが来て「ぜひ家へ来てほしい」と言われるので、そのまま行くと、夫と、友達や会社の人たちが四、五人いました。
皆で近所の神社へ行き、おみくじを引くと、不思議なことに、夫と私が大吉でした。他の人たちはあまり良くなくて、皆で神社の気の枝に縛ったことを覚えています。
皆、粋な若者でした。
ここまでは入院中に書き、退院と同時に中断しましたが、また、気持ちに余裕ができたときに、ぽつぽつと書いていきたいと思います。 夫(20歳の頃)
というわけで、『ミオソチスの手記』はこれにてしばらくお休みさせていただきます。
母も、気の向くままに戦争中の話や子供時代のことなど、書き留めているようですので、ある程度溜まりましたら、また再開するかもしれませんので、その時またはよろしくお願いいたします。
ここまで、1カ月間でしたが、おつき合いいただいてありがとうございました。
このブログはずっとこのままにしておきますので、またお気軽に立ち寄ってコメントなども入れていただけると嬉しいです。
またお会いできる日を楽しみに…
ミオソチスの娘より 私は定時に帰らないと、父が妹たちを連れていつも電車の駅まで来て待っているので、見張られているようででつまらない毎日でした。
ある日、肥後橋から駅に向かって歩いていたら、梅田の商店街のお店から女の人が飛び出してきました。驚いたことに、石川県で、共に大阪からの疎開生だった人でした。一生の間に何人かの人と縁があり、偶然に思いがけないところで出会うものだと思います。
成人するまでのことは、まるで昨日のように思い出すのに、青春時代はほんの少しで、戦後の混乱時代は毎日夢中で過ごしていたようです。
お務めは一年くらいで辞め、母の強い希望で、嫌いなお裁縫を習いに行くようになりました。
昔住んでいた玉川町の、親の知り合いの家で、二、三人の娘たちを預かってお裁縫を教えてくれるのです。
十時頃から三時まで、お寺のお嬢さんで私より一つ先輩の人と、後輩の人と、三人でした。
疎開中も同じように、父の知り合いの家に同級生三人でお裁縫を習いに通っていましたが、あまり身につかず、お昼休みになると、そこのご主人が卓球台を出してきて、お昼休みにはいつまでも皆で卓球をしていたので、遊んでいるような毎日でした。
大阪へ帰ってからは、母が遅くから出産して、妹が生まれ、四人姉妹になりました。また、母は盲腸の手遅れと産後の病気で、てんやわんやの日々でした。 フシグロセンノウ 花言葉は『転機』
社長は阪大卒のインテリでした。入社した日に皆でコーヒーをごちそうしてもらいましたが、とても美味しいコーヒーで、とても高かったのでびっくりしました。それから社長が留守のときは、帰りは必ず5、6人でコーヒーを飲み、社長のつけにしていたので、月末に大目玉だったそうです。そのお店は、バスの古いのを2台使って、1台は温室にしてお花がいっぱい。もう1台がコーヒーのお店になっていました。名前が思い出せませんが、店長さんは、昔は有名な歌手で、ヨーロッパから帰国してお店を始めたという話でした。
会社は肥後橋、中之島のすぐ側で、屋上から見ると、まだ焼け野原でした。当時は珍しく5階建てくらいのビルで、その3階だったと思います。
世の中物騒で、お客さんが自転車を止めて、階段を昇って降りてくると、もう盗まれているのです。
自転車泥棒という映画がありましたが、そっくりでした。私が急いで下まで見に行くともうなくなっていたこともあり、それからは、皆、自転車を担いで階段を上ってくるようになりました。もちろんエレベーターはないのですが、何とも思わず昇ってきました。
私の仕事は、お客さんの顔を見ただけで、この人は何割引、とか決まっているので、その通りに伝票を切るのですが、覚えるのに大変でした。
社長がポケットマネーで靴屋さんに連れて行き、上等な靴をあつらえてくれましたので、靴だけは素敵な靴でした。
会社の人たちは、休み時間になると競馬新聞を買ってきて、わいわい言っていましたが、私には何もわかりませんでした。また、その頃はダンスが流行って、退社の時刻になると机を後ろに片付けて練習していました。 萩 花言葉は『思案』『想い』
大阪にに帰っても、少しは役に立ちたいと思い、働くことにしました。
小学校は跡形もありませんでしたが、女学校は被害に遭わずそのままでしたので、訪ねて行きましたら、運良く先生たちもそのままで、さっそく担任だった先生に相談に乗ってもらい、日本合金工具株式会社(現・株式会社タンガロイ?)という会社の事務員になりました。
1年ほどでしたが、初めて社会に出て、いろいろ面白かったです。
男の人ばかりで、女の子一人ですから『ミス・タンガロイ』と言って、大切にしてくれました。
でも、お給料は安くて、月給五千円もないくらい。お弁当にコロッケを一つ買って、絹の靴下が千円位するので破れると修理する店があり、服が欲しくても中々作れません。
初めていただいたお給料は一応お仏壇に上げておきましたが、結局、母から全部もらって使いました。お金の有り難さが初めてわかった一年間でした。 妹と
疎開の間、私たちがいた家は、海水浴場の近くにありました。改札口がすぐ側にあり、駅長さんの家も隣組だったので、荷車を回してくれて、荷車一台に引っ越し荷物を全部入れました。
履物屋をやめるときはほとんど売ったらしいのですが、それでも少しだけ持ってきた品物も、もうあまり残っていませんでした。田舎では品物をあげないとお米を売ってくれないそうで、ほとんどの品物をお米に替え、タンスの引き出しは全部お米にして、家族五人、父、母、私、妹二人で食べてきたのですから。何日かかけて、大阪の家までトラックで運んでいきました。
あの頃は、徹夜して切符を買って、汽車にぶら下がって帰るような時代でしたが、石川県の家の近所の人たちも大阪の近所の人たちも、総出で荷物を運んでくれた親切な人たちばかりでした。
疎開中はたった3年でしたのに、大阪に帰るときは、田舎に何十年もいたような、泣いたり笑ったり複雑なときを過ごしました。 岩桔梗 花言葉は『感謝』『誠実』

