チベットの密教と文化 科目試験「今後の日本とチベットの関係」 | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

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ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

第四章第十二節「入蔵者たち」等を参考にして、過去における日本人とチベットとの関わりについてまとめた後、今後のあるべき日本人とチベットとの関係について思うところを述べなさい。

 

 日本は、明治維新後、アジア諸国が西欧帝国主義により植民地化されるなか、明治天皇を中心とする中央集権国家として、文明開化、富国強兵、殖産興業、を押し進め日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)を経て、列強の仲間入りを果たした。近代国家に変貌するため各分野で改革が行われた。

 宗教に関しては、国家神道の方針により、神仏分離の令による廃仏毀釈運動、また寺請制度は戸籍法に置き換わり、廃藩置県の際に寺社上知令が行われ寺社地のほとんどが国家に没収され寺院の経済的基盤は大きく悪化する。修験道廃止令、妻帯肉食の許可による影響もあり、仏教界は大きく沈滞する。

 このなか、浄土真宗の大谷光尊が廃仏毀釈に対し、政教分離、信教の自由を唱え政府の神道国家政策を批判し仏教の復権を図る。また光瑞(光尊長男)は皇太子の義兄となり、天皇家との繋がりを深め、大谷探検隊を率い、3回にわたる中央アジア、西域地区の仏跡探検をおこなった。

 このような状況のなか、河口慧海(1866~1945)、矢島保治郎(1882~1963)、青木文教(1886~1956)、多田等観(1890~1962)の4名が初期の主な入蔵者となる。矢島以外は僧侶である。

 その当時のチベットは、清朝→中華民国(1912建国)、英国、露国に翻弄されながらもダライ・ラマ13世のもと厳しい鎖国政策を実施していた。

 河口慧海『チベット旅行記』(注1)(1900~1902滞在)『第二回チベット旅行記』(注2)(1914~1915滞在)、多田等観『チベット滞在記』(注3)(1913~1923滞在)に当時のチベットの状況を各方面にわたり記載している。三書を熟読し以下を理解した。

 慧海は、シナ人に化けての単独入蔵(1回目)である。両回とも深い信心により幾度もの死に瀕した危機から救われ、ダライ・ラマ13世、側近の大臣と親交を得て、目的であるチベットの経書類を入手する。2回目の入蔵では、途中ネパールで多数の梵語書籍を入手し、チベットでは、法王よりチベット語の一切蔵経、タシーラーマより歴代著書等を入手し、祈禱書、問答集、医書などを収集した。

 等観は、前述した大谷光瑞の弟子であり、1911~1912に日本に滞在していたツァワ・ティトゥー僧正と従者二人のお世話をし、その縁でダライ・ラマ13世と懇意になり

ラサのセラ寺で十年間の修行を積み、日本人初のゲシェー位を得ている。今で言う政府交換留学生であり、待遇は恵まれていた。法王よりチベット仏教の教えを拡げるよう『デルゲ版西蔵大蔵経』、『歴代ダライ・ラマ全書』『歴代パンチェン・ラマ全書』等種々の教・論書を授かっている。

 チベット仏教秘密部の捉え方も慧海と等観では大きな違いがある。

 慧海は2回目の旅行記でチベットの宗教として六節に分け詳細に記載しているが、持戒厳しい慧海にとりチベット秘密仏教に関しては「日本にはかかる尊き仏教はあるまいから、国に還ったら、宜しくこれを喧伝せよ、などいうに至っては噴飯に値する。」と厳しい立場をとっている。

 等観は黄帽派の教えが蒙古民族、シベリア、ブータン、シッキム、ネパール、ラダックに及ぶこと、「チベットの仏教は、他国の人々の予想以上に発展した仏教であって、秘密仏教も立派な生き方を持つものであってこれを邪教とみるのは当らない。」と述べている。

 等観は、チベット仏教ゲシェーとして日本に適合した後期密教を興隆する可能性があったが、神国日本のもと帝国主義に向かう日本では困難であった。

 今後は、チベットの厳しい現状も鑑み、日本、チベット仏教界が手を組み世界平和に貢献しなくてはならない。

 

(注1)河口慧海『チベット旅行記』白水社 1978年発行

(注2)河口慧海『第二回チベット旅行記』講談社 1981年発行

(注3)多田等観『チベット滞在記』講談社 2009年発行