いのち・生命をめぐる議論について
村上先生のテキスト『密教思想と現代』(注1)には、空海の3部作を根底に現代の様々な問題に関して、現代社会のどこが問題なのか、空海の思想をどのように社会に活かせるのか、社会に活かす(実践する)際にどのような注意が必要なのかが記載されている。
今後、世の中に出て僧侶として働きを行うにあたり、有益な内容があるので、再確認する。また、設題の「いのち・生命をめぐる議論」にも大きく関る内容である。
現在(2015年)の懸念事項としてイスラム国による無差別テロと、テロ撲滅をうたう米国、ユーロ圏の国々、ロシア、反イスラム国による報復措置の問題がある。ここには現代社会のかかえる高度に発達した技術社会(通信、科学、医療、etc.)と人間(精神、倫理)に関わる問題がある。。例えばSNS(時間、空間の枠がなくなる)による無差別的な全人類への主義主張の発信(脅迫映像の配信)などは過去にはない最先端技術を利用したやり方である。東日本大震災による原発事故(メルトダウン)も先端技術事故であり、悪意はなくても地球の存在を危うくする問題である。このような現代(合理主義)社会に対して宗教界からの考察が行われる。
1、下記提言は、オウム真理教事件に対する著者の分析と、特にオウム真理教の主張している(邪教)瞑想と仏教・密教の(正しい宗教)瞑想との違いを明確にした文書である。[ ]内に私見を記載する。
「瞑想と技術」より
①密教の三密瑜伽行は、仏の智慧を悟る時間と空間の境地・地平であって、決して「さとり」の技術や手段ではない。瞑想を技術と捉えたとき、その瞑想は、正しい仏教や密教の瞑想とは無縁であり、邪教の自己中心的で、エゴイズムを正当化する瞑想になる。
以下、上記文章の検証作業を行う。
→事実を超えた世界を問題にする宗教家(出世間)と物質的現象の世界(世間)を問題にしている科学者とが何故一体となったのか?
→「技術」あるいは「技術的思考」というものが、宗教家と科学者の共通観念となり、異質(出世間と世間)なものが一体となりえる。
→「技術」の本質とは、ある事象の原因と結果の連鎖構造を物質の流れに還元して捉え、それを物質的・物理的に処理することである。
→オウム真理教の信者が解脱のために覚醒剤や幻覚剤LSDなどの麻薬を使用していることは、彼らが、解脱を意識のトランス状態に入ることと捉えていたことを示す。
すなわち、彼らは解脱の因果関係を物質の流れ、いわば心理的生理的因果関係に還元し、その流れを技術的に処理するところに見ていたことがわかる。
大学院を出た若い科学者が薬物使用による解脱を考えるのは、科学の思考からは当然の結論といえる。
[アインシュタイン、湯川秀樹にしても科学の世界を極限まで突きつめると神の領域(宗教の世界)だという卓見がある。真言密教の世界にも「事」「理」不二という「事」の世界(物質的、物理的なものからも深意を汲み取ろうとする意識)がある。更には弘法大師空海の神泉苑の雨請いで雨を降らせた事実等、意識的に物質世界に影響を及ぼす事も可能である。世の中のためになる方向での科学と宗教の結合は悪くないと思う。ダライ・ラマ14世も「仏教の本質は哲学的、科学的、宗教的である」と明言している。]
②社会的にも正しい宗教と邪教の違いは、物質レベルの心すなわち自我と欲望から自由な境地に立っているかどうか。
→オウム真理教や科学的新々宗教は、瞑想によって物質の因果連鎖から自由になっていると主張するに違いない。[瞑想から生まれた智慧が下記の結果だとすると、何故そうなったかの原因分析と対策を必要とする。]
→サリンを製造したオウム真理教の幹部たちが毒ガス研究(真理)のためなら手段を選ばないという反倫理的意識を持ったとしても別に不思議ではない。[インド後期密教にタントリズムの歴史がある。タントリズムは、ヒンドゥー教であれ、仏教であれ、ジャイナ教であれ、さまざまな非倫理的、反道徳的な行為を悟りへの道としてすすめるものである。社会的なタブーを犯すことによって、自己の絶対的な自由を獲得しようとする。バラモン教の支配するカースト制度、習慣に徹底して逆らい、そこで尊重される浄の観念をあえて放棄するのが、タントリズムの行動方式である。(注2)現代版タントリズムと考えて良いのだろうか。]
→科学とは、対象である客体について科学者の主観をまじえずに研究するものであって、研究している自己自身をまったく問題にしない。[理研小保方研究員によるSTAP細胞事件もこれに属するのであろう。多分、本人は何等の悪意も持っていないが、結果として担当教官の自殺、論文のコピペ問題(横浜マンションの杭うちコピペにも通じる)等により、社会(法律と倫理)から断罪されている。科学の世界だけでなく経済社会でも結果(利益)を出さないと生き残れない世界であり、法律に觝触しない限りどのような手段を使っても良いという風潮がある。ただし、多数の会社の社是には、「世の中のためになることを行う」とあるが、徹底した合理主義(利益至上主義)のために、社是(倫理)と社員(個人意識)の間に大きな精神的・倫理的な乖離が生まれている。]
③智慧の行は、瞑想者自身の倫理性すなわち戒の精神を心の根底に置いている。
→瞑想によって物質の因果関係から自由になるには、何ものにもとらわれない自由の境地と共に、瞑想者の在り方を自己規制する倫理性すなわち戒の精神が問われる。[密教では1正法を捨てない2菩提心を捨てない3一切の教えを相手の機根に応じて惜しみなく与える4衆生の救済に努力をする。の四重禁戒がある。また五大願(五つの誓い)として、1衆生は無辺なり誓って度(すく)わんことを願う2福智は無辺なり誓って集めんことを願う3法門は無辺なり誓って学ばんことを願う4如来は無辺なり誓って事(つか)えんことを願う5菩提は無上なり誓って証(さと)らんことを願うがある。(注3)]
→密教においては、瞑想者の宗教的素質すなわち機根が根本的に問題になる。[機根の機は機発の意で、過去の因縁によって宿善を開発する義を示し、根は信進念定慧の五根をさす。菩提心論には、「五根が勝れていて外道二乗等の方法をねがわず、勇猛精進して疑惑することなく信心深き行者は秘密仏乗を修学せよ」とある。(注4)]
④正しい宗教は、大悲を根本とする智慧とは何かを明かにすると同時に、瞑想者の倫理性を如何に高めるかを考えているかどうかにある。
→瞑想のレベルは、人の宗教的素質によって異なる。このことは、誰でもレベルは異なるが、解脱できるという思考を生み出す。解脱は特別の境地ではなく、日常性のすぐ側にある神秘的な心理状態にすぎず、誰でも得られる商品として技術化できる境地となる。
このことは、解脱が遊びやゲーム感覚のレベルで捉えられることになり、現代の新々宗教の最終解脱を目的とした魅力的な宗教ソフトが提供される状況となる。
もしも、伝統仏教が世論の批判に乗ってこの宗教ソフト戦争に参加したとしたら、それは伝統的既成宗教の自殺である。正しい仏教や密教はどこまでも物質や技術の思考から自由でなければならない。商品化された宗教ブームに乗ってはならないのである。[密教は教えを学ぶのに師資相伝により、前述の③を満たしているかの判断も含めた教育システムとなっている。当然、師僧の責任は重い。また弟子も何か事を起すにあたっては、お師僧から許可を受ける義務がある。人間(行者)は独善に陥るのが一番危険である。常にお師僧に確認しながら進むことが肝要である。]
2、次に大師の「いのち」観に関する考察がある。[ ]内に私見を記載する。
大師において、死は生と対立するものではない。死は生の反映であり、生きられる自然(客体)そのものである。すなわち、自然(現象)としての死をどのように死ぬか、つまり生きるか、というところに生死(人生)の意味があるということである。
→大乗の如来蔵思想は、存在に空性を見ながら、不変的実体として一切衆生の心に普遍的に存在する清浄なる心(如来蔵)のあることを認めている。
→大師は、一切の衆生が生命活動の根源である仏性(如来蔵、「いのち」)を有していると共に、その具体的な現れ(主体)である個人がこの「いのち」の現象(客体)にほかならないと考えている。すなわち、すべての存在者は、その存在の本質・「いのち」(普遍性)の次元においては客体存在であると同時に、個的存在としては主体存在として、つまり主体=客体存在として存在していると捉えている。
→人々の人生(生活)のただ中において、自己の死が普遍の「いのち」の現れであるが故に、その「いのち」を受け止め、その「いのち」を日々の生活にいかすこと、そしてそこに心の安らぎのあることを説き続ける癒しの実践が必要である。
[具体的には、五大願を常に誓い、六波羅密道に努め、瑜伽により客体の「いのち」と通じることだと思う。
大師入定留身の目的は、理趣経の「菩薩勝慧者 乃至尽生死 恒作衆生利 而不趣涅槃」の精神を體して、専ら二大誓願(令法久住と鎮護国家)の実現を期する点に在するのであり(注5)、自らの生死分段の血肉身を、秘法によって統制して光潔なものとなし、身を百億に分って分身散影し、永劫に迷える衆生の金剛の杖となり遍照の光とならん。ことである。(注6)
現代の真言僧侶(主体の私)としては、お大師様(客体の私)を信じ、鎮護地球・鎮護宇宙の規模で活動しなくてはならない。]
(注1)『密教思想と現代』村上保壽著 高野山大学通信教育室 2004年3月1日発行
(注2)『密教』松長有慶著 岩波書店 1991年7月19日発行
(注3)『阿字観瞑想入門』山崎泰廣著 春秋社 2003年8月28日発行
(注4)『十巻講説』小田慈舟著 高野山出版社 昭和60年5月21日発行
(注5)『弘法大師の入定観』森田龍僊著 山城屋藤井文政堂 昭和4年1月3日発行
(注6)『入定留身』三井英光著 法蔵館 昭和56年5月21日発行