弘法大師伝 設題1「入唐時の事跡に関して」 | 「明海和尚のソマチット大楽護摩」

「明海和尚のソマチット大楽護摩」

ソマチット大楽護摩は、古代ソマチットを敷き詰めた護摩壇
で毎朝4時から2時間かけ護摩を焚きカルマ浄化、種々護摩祈願を行なっている。

誕生から唐にわたって密教を学び帰国するまでのご生涯のうち、関心のある事績を取り上げて論じなさい。

 

 空海は、八〇四年八月に唐の福州長渓県赤岸鎮に到着、同年十二月に長安に入城する。八〇五年五月頃に恵果和尚を青龍寺に尋ね、八月上旬には真言両部の大法を継承し遍照金剛の灌頂名を授かる。同年十二月十五日に恵果和尚は入滅する。八〇六年八月に二年間の滞唐を終え、空海は明州の港を後にする。

 ここで、注目し論じたいのは、空海の入唐に際しての情報収集力と語学力の形成である。『性霊集』巻七「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造る願文」のなかに「弟子空海、性熏我を勧めて、源に還るを思と為す。経路未だ知らず。岐に臨んで、幾たびか泣す。精誠感有つて此の秘門を得たり。文に臨むも心昏し。願って赤縣を尋ぬ。人の願ひ天順ふ。大唐に入ることを得たり。たまたま導師に遇つて、此の両部大曼荼羅を図き得たり。兼て諸尊・真言・印契等を学ぶ。」(注1)とある。

 八〇六年六月~八月の三ヶ月間で両部大法を恵果和尚から受法するには、入唐前の灌頂に対する入念な準備、継承者としての器(人間力)を形成しておく必要がある。

 「たまたま導師に遇つて、此の両部大曼荼羅を図き得たり。」とあるが、空海が両部大法を継承する事を予知していたのか、もしくは、沙門として最善の努力を日々行う内に自然とこういう結果になったのかはわからないが、いずれにしても仏の御加護があったのは間違いないと思う。つまり偶然ではなく必然である。

 また、「文に臨むも心昏し」の心昏しのレベルであるが、『大日経』の大部分がわからないのか、極意部分だけがわからないのか甚だ疑問を感じる。阿部龍一氏の論文には、以下のようにある。

 空海は、『御請来目録』の冒頭で、聖教をはじめとする唐から請来したさまざまな品目を以下の六種に分類している。

 1新訳および旧訳の聖教一四二部二四七巻 2梵字で書かれた真言・讃・儀軌など四二部、四四巻 3論書・疏・その他の注釈類三二部、一七〇巻 4曼荼羅・諸尊図、伝法阿闍梨の影像などの図像一〇鋪 5法具九種一八品目 6師恵果阿闍梨から付囑された品一三点。

 更に、この内の聖教類を新訳経と旧訳経に分け、 

1新訳経 

  a不空三蔵により訳出されたもの一一八部、一五〇巻 

   ⅰ「貞元新定釈教目録」に記載されているもの一〇五部、一三五巻 

   ⅱ「貞元録」に未だ記載されていないもの一三部、一五巻

  b般若三蔵他による訳出経九部、七五巻

2旧訳経二四部、九七巻とする。

 高木訷元氏の研究によると、空海の請来経は、日本ですでに書写された経との重複がわずか三点しかないことが明かにされている。

 空海はどのような知識と方法で請来経の重複を避けることができたのだろうか。空海は経典類を新訳経と旧訳経に二分する。これは、玄昉によると見られる大規模な聖教の請来や光明皇后の写経事業など、奈良期の一切経の収集と書写の基準となった七三〇年に長安崇福寺僧智昇が編集した一切経目録『開元釈教録』二〇巻が基となる。『開元録』に記載されている経を旧訳経とし、『開元録』以降訳出された聖教を新訳経としていること。また、八〇〇年に長安西明寺僧円照が編集した『貞元新定釈教録』を使用し最新の密教経典を把握し既存の請来経との重複を避けたものと推測される。

 また、『正倉院文書』の講読経奉請解継文を見ると、

 「謹解 申奉請経事 卅三巻 合 奉請経七部 大毘盧遮那成仏神変加持経 一部 七巻[宮一切経内] 金剛頂瑜伽中略出念誦法経 一部 十巻 [宮一切経内] 大吉義神呪経 一部 四巻 七仏所説神呪経 一部 四巻 「已上 三部 四年十月十八日返上了」右件経 為奉講所請如前 仍注状以 謹解 宝亀三年九月十五日 講僧 仙憬 奉請 同月十六日使 傀命」

 とあり、『大日経』は善無畏による訳経から十二年、『金剛頂経』も金剛智の訳出から十三年で日本に伝わり、奈良時代にすでに書写され、学習され、講読されていたことが推測される。さらに南都諸寺で重視されていた『金光明経』『大般若経』『法華経』には菩薩が陀羅尼を読誦することで無上菩提を得る事が繰り返し説かれており、また、『千手千眼神呪経』『仏頂経』『十一面神呪心経』など奈良期に多数書写された密教経典には陀羅尼・印・観想法を用いた諸尊の瑜伽法が説かれているので、『大日経』と『金剛頂経』のいわゆる純密的成仏論が南都の学僧にとってまったく理解不能だったとは言い切れない状況が推測される。」(注2)

 これにより、空海は入唐前に日本に伝来された経軌類(顕密二教)の情報を収集し、入念に検討して学び、両部の根本経典である『大日経』『金剛頂経』に関しても灌頂儀式の実際(実践)以外は身につけていたと考えられる。

 次に、語学(梵語)である。空海は、長安に入城した八〇四年十二月末から八〇五年五月上旬までの約四ヶ月間で、入唐に際しての主要目的のひとつである梵語を身につける。「『御請来目録』に記される恵果阿闍梨よりの付法の経緯の中で」「六月上旬に学法灌頂壇に入る。大悲胎蔵大曼荼羅に臨んで、云々 これより以後、胎蔵の梵字儀軌を受け、諸尊の瑜伽観智を学す。」(注3)と梵字がマスター出来ていなければクリア出来ない梵字儀軌を授かっているからである。「八月上旬にもまた伝法阿闍梨位の灌頂を受く。云々『金剛頂瑜伽』、五部真言、密契、相続いて受け、梵字・梵讃間もってこれを学す。」(注3)とあるように梵語の習得は間断なく続けられている。

 また、恵果和尚の俗弟子の呉慇は「恵果阿闍梨行状」のなかで、「今、日本の沙門空海ありて、来りて聖教を求むるに、両部の秘奥、壇儀、印契を似てす。漢梵差うことなく、悉く心に受くること、猶し瀉瓶のごとし」と記している。空海が両部の大法を受け、梵字儀軌、梵字梵讃を学ぶのに、漢梵の差うことがなかったのは、じつに恵果和尚に師事する以前の醴泉寺における般若三蔵のもとでの学習が大いに預かって力あってのことである。(注4)

 空海は、『性霊集』巻第五「本国の使に与へて共に帰らんと請ふ啓」に「幸に中天竺国の般若三蔵、及び内供奉恵果大阿闍梨に遇ひたてまつつて、膝歩接足して彼の甘露を仰ぐ。」(注5)と在唐時代の師主として、この二人をあげていることからも梵語を身につける意義の高さが如実にわかる。

 『御請来目録』の梵字真言讃等には、『梵字大毘盧遮那胎蔵大儀軌』二巻を筆頭に、儀軌、真言、讃、陀羅尼、『梵字悉曇章』一巻の四十二部四十四巻が記載されている。また注解には、「釈経は印度を本とせり。西域東垂、風範天に隔てたり。言語、楚夏の韻に異んじ、文字、篆隷の体にあらず。この故にかの翻訳を待って、すなわち清風を酌む。然れども猶真言幽邃にして、字字の義深し。音に随つて義を改むれば、しゃせつ謬り易し。粗髣髴を得て、清切なることを得ず。この梵字にあらずんば、長短別へ難し。源を在するの意。それここに在り。」とある。つまり、漢字による当て字では似て非なるもので、根源を知ることは出来ない。発音も含め梵字そのものを源にしないとだめである。ということである。空海は、発音も含め、日本では決して学べない梵語の基礎を般若三蔵より学んだのだろう。

 現在、真言行者が学んでいる真言は、漢字の当て字による読み方である。しかも、梵字↓漢字(中国語)↓漢字(日本語)となっている、梵字の発音自体に重大な意味があるのなら源から大きく外れ効果なしとなってしまう。阿字のアの発音は印度のアの発音と同一であることを願う。

 次に、空海が梵字に関して撰述した『梵字悉曇字母并釈義』を参照し梵字の発音に関しどのような見解であるか確認する。

 梵字の起源に関しては、『大日経』によれば、この悉曇文字は自然道理の所作であり、如来や梵王諸天が作ったものではない。諸仏如来が仏眼をもってこの法然の文字を観察し、梵王等に伝授し、転じて衆生に教えたものである。世人はただ梵字の字相を知って日常に使用するが、字義は知らない。もし字義を知って用いれば出世間の陀羅尼の文字となる。唐に翻じて惣持という。

 総持に四種類あり、法陀羅尼、義陀羅尼、呪陀羅尼、菩薩忍陀羅尼を顕密両方で説明する。また、五種類の総持あり、聞持、法持、義持、根持、蔵持である。更に『大毘盧遮那』及び『金剛頂経』等の秘密蔵の中に於ては、具に如来自受用の五智等の相応の趣を説けり。故に、五種の陀羅尼を説く。かくの如く五種の智を根本とす。とし梵字の字義を解説する。

 次節で「梵字梵語は一字の声に於て無量の義を含む。改めて唐言となるときは、但し片玉を得て三隅はすなはち闕けたり。」として真言を伝えるには悉く梵字を用いるとする。「これを書すれば定んで常住の仏智を得ん。これを誦じ、これを観ずれば必ず不壊の法身を証す。」と説く。「一字の声に於て」と「声」が記載されるところに大きな意味が見出される。(注6)

 以上、どのように空海が三ヶ月という短期間で両部大法を恵果和尚より授かることが出来たのか考察してきた。結論として、入唐前までに、灌頂儀式の実際、梵字の発音以外はほぼマスターしていたという事である。

 長安に入城した十二月末から西明寺に移る二月上旬までの1ヶ月間で空海は貞元の英傑の『六言の詩』一巻、王昌齢の『詩格』一巻、徳宗皇帝の真筆、欧陽詢の真跡、張誼の真跡などを集めたばかりか、空海自身「余、海西において頗る骨法を閑えり。未だ画墨せずといえども稍、規矩を覚れり」『性霊集』巻四と書いているように種々の書法について、直接に解書の先生について習い、その口授を受けている。また、筆墨の製造についても聴見している。(注7)

 空海の言語に関する能力はずばぬけている。若き日の虚空蔵求聞持法成満のなす技かも知れない。

 

(注1)『弘法大師空海全集』第六巻 昭和59年 筑摩書房発行

(注2)『奈良仏教と在地社会』2004年 岩田書院発行「奈良期の密教の再検討ー九世紀の展開をふまえてー阿部龍一」 

(注3)『弘法大師空海全集』第二巻 昭和59年 筑摩書房発行

(注4)『空海ー生涯とその周辺』 高木訷元著 平成9年 吉川弘文館発行

(注5)『弘法大師空海全集』第六巻 昭和59年 筑摩書房発行

(注6)『弘法大師空海全集』第四巻 昭和59年 筑摩書房発行

(注7)『空海ー生涯とその周辺』 高木訷元著 平成9年 吉川弘文館発行