空海は即身成仏思想を唱えるに当たって、六大体大・四曼相大・三密用大の三大説を展開したが、その中の六大と四曼の関係について論じなさい。
『現代語の十巻章と解説』で栂尾先生は、『即身成仏義』の六大と四曼の関係について以下のように述べている。
まず、『即身成仏義』解読への準備として、以下が説かれる。
1、「縁起の法の体得」
釈尊成道の内容たる無上正等正覚とは何かというと、縁起の法の体得である。釈尊は弟子に対し、
「縁起を見るものは法を見、法を見るものは我を見る」
「縁起の法はわが所作にあらず、また余人の作にもあらず、しかもかの如来が世に出ずるも出ざるも、法界は常住である。かの如来は自からこの法をさとりて等正覚を成じ、もろもろの衆生のために分別し演説し開発し顕示す。いわゆるこれあるがゆえに彼れあり、これ起るがゆえにかれ起る」といわれている。
→宇宙に存在するものは何一つとして孤立するものはなく、一つ一つが直接もしくは間接に他の一切のものと関連して、密接不離の関係のもとに一体として生きている。これを身につけることが縁起の法の把握である。もしこの自己の個体を中心として見るとき、直接もしくは間接に自己を成立せしむる因となり縁となっているものが、周囲をとりまきその環境をなしている。その中心と周囲とが一体となって生きているのが本当の「われ」であり、自我の内容である。
2、「縁起の極みは法界」
『華厳経』に「如来の一つの毛孔を観じ見るに、あらゆる衆生はことごとくそのうちに入り、しかも衆生に往来のおもいがない」
『大日経疏』に「ただ一事の真実にして空しからざるものがある。それはすなわち我れである。その我れとはすなわち法界である」
上記2つも、縁起の法の展開である。さらに大師はこれを徹底的に考察し、
『吽字義』に「因もこれ法界であり、縁もこれ法界であり、因縁所生の法もまたこれ法界なり」と時間的、空間的にも因には因があり、縁には縁があり、因縁所生の法にもまた因縁が連続してきわまるところがないと説く。
→この縁起の法を究極にまで展開した「われすなわち法界」の思想が、即身成仏の基盤となる。
3、「発菩提心」
因縁によって生じたものが因縁によって亡びることは、縁起の法の一面であるが、其の縁起は全一としての宇宙の動きであり、永遠を流れる生命の様相に過ぎない。この亡びゆくわれの肉身を通して無限生命の躍動を「大悲の行願心と大智の勝義心と大定の三摩地心」を起し菩提の行を修し、ついには永遠の生命に合一して無限を生きることが空海の即身成仏にして、釈尊成道の真精神を生かしたものである。
4、「如実知自心」
『大日経』に「いかんが覚りとならば、いわく実の如くに自心を知ることなり」
→釈尊の成道といい、成仏と言っても、因縁によって動いている宇宙の真実相を徹見することに他ならない。その真実相は決して遠いところにあるのではなく、もっとも手近く、それがわれ等の心の中にある。これを是心即仏とも即心成仏ともいう。
5、「即心→即身」
「如実知自心」では心の一辺に堕する偏見になる可能性がある。われ等の身体は内界と外界との中間にいて、その媒介をなす使命をもっている。すなわち、心を深く掘り下げてその本性を把握せんとする是心即仏の観をなすにしても、この身体を離れては、なんの思念も観想も成り立たないとともに、この心に体験した境地を外に伸ばし、これによって一切の他の人を摂化しようとしても、この身体を通じてするほかないのであり、その身体の果たすべき役目はきわめて重大である。
→空海は、即心成仏を包容しながらも、即身成仏を基本とした。
6、「本当の成仏であり成道」
『十住心論』において、心と身との両面に「如実知自心」を開き、「究竟して自心の源低を覚知し、実の如くに自身の数量を証悟す」
→われら人類の身的現象がそのままに宇宙の外界につらなり、その心的方面がそのままに宇宙の内界をつらぬいている。したがって、心の実相に徹することが宇宙の内面に合一することであり、身の真相をつかむことが宇宙の一切を悟ることになる。
7、「即身の偈、成仏の偈」
6にある「自身の数量を証悟」する方面を即身の偈といい、「自心の源低を覚知」する方面を成仏の偈と称している。
以上が準備段階である。
次に、設題である六大と四曼の関係については、以下の『即身成仏義』の「即身の偈」に説かれている。
「六大無碍常瑜伽(体大) 四種曼荼各々不離(相大)
三密加持速疾顕(用大) 重々帝網名即身(無碍)」
1、「体大、相大、用大」
宇宙をつらぬく永遠の生命に合一し、有限の肉身そのままに無限を生きることが即身成仏の基盤である。この宇宙の無限霊妙の生命体の「本質」を体大、「形相」を相大、「活動」を用大という。
2、「体大」(本質)
あらゆる対立を超越する形以上の境地で、秘密の法界体という。つまり思議を超越する神妙霊妙の宇宙体といい、対立的な言語をもって説明できない境地なので、有限の事物を象徴とし密号として、直感的に覚知する世界である。そこで空海は、地・水・火・風・空・識の六大の密号をもって表示した。
大「地」があらゆるものの所依となっているが如くに、この神秘の宇宙体は一切のものの基盤であり、
「水」が清涼にして熱悩を去るが如くに、それは一切の煩悩を去るものであり、
「火」が一切の薪を焼くが如くに一切の罪過を焼きつくし、
「風」が一切の塵を払うが如くに一切の垢穢を払除し、
虚「空」が一切無碍なるが如くに一切に遍満し、
「識」が一切を了別するが如くに一切を識智して誤らない。
つまり、
ありとあらゆるものを創造し発展させる源泉にして、一切の熱悩や罪垢をはなれ、一切に遍満し一切を知る霊妙の生命体が宇宙の本質にして、それはあたかも太陽の如くに、一切を照らし一切を生かし、一切をはぐくみ、一切を育てる霊体なるがゆえに「大日法身」ともいう。
3、「相大」(形相)
「大日法身」の表現が宇宙の現象であるから、もし真実を照らす心の眼をもってするとき、この宇宙現象の一つ一つがそのまま仏の形相であり、何一つとして仏の姿でないものはない。されば無量無辺の仏と仏との羅列群集する世界が、宇宙の形相であり、空海はこれを説明するのに曼荼羅の語を用いた。
4、「曼荼羅」
普通に曼荼羅といえば仏菩薩の群像を描写し、もしくは造立せる形像図様を指すが、それは第二次的なもので、その形像図様の基本となり源泉となっているのが、宇宙の実相としての相大世界である。それが本当の第一次の根本曼荼羅で、それをいまここに「曼荼羅」というのである。それで曼荼羅(Mandala)とは本質(Manda)を具有するもの(la)の義である。
5、「四種類の曼荼羅」
曼荼羅を分類すると四種になる。
①大曼荼羅 宇宙に遍満する仏菩薩としての各々の生類
②三昧耶曼荼羅 宇宙における自然界の森羅万象が、各々に仏の真精神を象徴する
③法曼荼羅 宇宙の一事一物を支配する一切の理法、一切の教法
④羯磨曼荼羅 宇宙の一事一物に潜在する一切の能力、一切の神力
かくの如くに、根本仏の表現としての宇宙の形相が四種の曼荼羅に分れていても、それはいずれも同一本質の表現に過ぎないので、互に関連して分つべからざる密接不離なものである。
6、「六大と四曼の関係」
四種曼荼羅と六大とを対立して考える時、本質として、形をこえ・心を絶したる六大が、形あるものとしての四種曼荼羅を生ずることになり、そこに能生と所生との対立が成立するが、これはただ説明上の便宜に過ぎないので、ほんとうは能生とか所生とかの対立を超越した境地である。ゆえに空海は、
「能生と所生との二生ありといえども、すべて能(生む)所(生まれた)とを絶す」と説いている。(1)
7、参考として六大に関して浄厳撰述の『冠注即身成仏義』を確認すると、不空と善無畏の義をあげ説明している。
不空の伝は本有を宗と為す。「即事而真」の故に、世間の五行の配立に準ず。
「地」は能く諸法の自体を任務するが故に根本と為す。此れ一切有情本有薩埵能生諸仏の体性なり。是れ即ち本因なり。
「空」大は万物の精気上昇して天となる。軽く清めるものは浮かぶ故なり。澄浄なるが故に大円鏡智と為す。叉、一行一切行にして互具輪円にして闕滅あることなきこと猶、空に万象を含むが如く、亦鏡に諸影を浮かぶるが如し、此の故に不行にして行じ、不倒にして至る。是を不動仏と名け、亦宝幢仏(熾然の万行を立てて勇猛精進の故に)と曰ふなり。
「火」大は諸の塵垢を焼きて、能く清浄ならしむ。煩悩の垢に因りて諸法を分別して、自ら是れ他を非す。平等性の智火を以て隔執の垢を焚くが故に、万法悉く本有の一実に帰して不二一際なり。此れ自證の極みなり。是を宝生仏と為す。(万徳を出生する故に)。亦、開敷華王仏と為す(覚華開敷の故に)。
「風」大は能く諸法を成じ、亦能く諸物を壊す(涅槃に相応す)。又、風、動じて音を生ず。弥陀の説法の音声、能く衆生をして煩悩を断壊して、菩提を成就せしむ。又、諸の情非情皆な息風を以て、其の命根と為す。是れ無量寿の体なり。云々
「水」大は器に随ひて方円なり。故に北方の羯磨部の事業智となす。是れ方便善巧智円満なり。故に不空成就と言う。亦、天鼓雷音仏という。云々。
善無畏の義は、修生を宗と為するが故に、空大を中央大日と為すなり。
「地」大を東方と成することは、云々
「火」大を南方行門と為することは、云々
「水」大を西方證菩提と為することは、云々
「風」大を北方入涅槃と為することは、云々
「空」大を中央方便究竟と為することは、云々(2)
とあり、前述の栂尾説とは説き方を別にする。私としては栂尾説の方がわかりやすい。
(1)『現代語の十巻章と解説』栂尾祥雲著 高野山出版社 昭和50年1月21日発行
(2)『冠注即身成仏義」浄厳和上撰述、石村祐天訳著 青山社 平成8年11月23日発行