常に自分中心の執着、偏(かたよ)りを知らしめ、気づかしめる、もう一つのコントロールの目、深い心が必要なのです。

つまり第一人称は私。

第二人称が相手

三人称が彼や彼女、これ、それの第三者。

それに対し、自分を観る自分という視座が必要なのではないでしょうか。