にわとりのたまごからは,やはり鶏が生まれます。
桜の木には桜の花が咲きます。
何百何千種という花の種類がありますから、たまには一度ぐらいは間違って桜の木にボタンの花が咲きそうなものですよね。
たしかに因果の法則にはくるいがありません。
しかし仏教では常に因とともに、縁ということを説きます。
たとえば、何かの花の種子をまいても、水が不足したり、温度が適当でないと芽も出ないし、花も咲きません。
それは縁が欠けるからであります。
よい種子をまいても、縁が悪いとよい花や実を結びません。
またその反対に悪い種子であったけれど、すばらしい善き縁が加わる結果よき実を結ぶことがあります。
科学では因と果との間に必ず決定的な不変の法則がなければならぬと考えますが、縁の重要性を説く仏教ではそうは考えないのであります。
たとえば、悪人といわれる人のすることは、いつも悪いことばかりだとはいえませんし、また反対に善人といわれている人でも、何かのはずみに罪を犯すことがあります。
このように因と果とは決定的なものばかりだとは考えないのであります。
むしろそこには自由性があります。
従って仏教の因果の理法は私どもの生き方を強くいましめるとともに、一面では私どもの努力によってだれでも向上、発展することができます。
常に因と共に縁を説く、因縁果の道理が大事なことのように思います。