某所にある港。
赤色灯。
そう、ワタシはそれを見ていたのだ。
3月26日(晴)
ここから見える景色をもう何度見たことだろう。この街の一際高い所にある閑静な住宅街。ここからはみなとみらいが一望できる。私はこの景色が好きだ。携帯のピクチャーフォルダにはこの景色の写真が、一体何枚あるのだろうという位。本当にお気に入りの景色だ。
ここから坂を降りていくと花木園があり、そこをさらに降るといつ建てられたかも分からない大きな赤門がある。一体いつ、誰が、何のために作ったのかは知らない。別にどうでもいいのだ。ただそういうモノがこの街にあるというだけで私は満足だった。そしてこのコースが、私の散歩の基本コースなのだ。
その赤門の裏には、地元の子供たちが遊ぶであろう公園がある。子供たちが遊んでいるのを見たことはないが。子供の遊びの中心がゲームになって相当経つ。私もその世代だ。別に否定も肯定もしようと思わない。そういう中で育って生きてきたから。
私は公園というモノが嫌いだ。何故だかは覚えていないが、きっと小さい頃に嫌な思いでもしたのだろう。ほとんど遊んだ記憶もないし、実際そういう友達もいなかった。街の風景が、まるで空気のように、そこにあって当たり前のモノと映っている中で、この公園という場所だけ目に留まる。まるでそこにあってはイケないモノのように、目から入ってきた情報を脳がエラーと認識する。そういう違和感をずっと持って生きてきた。しかし、それも大した事ではない。大事と認識していたら、きっと気が狂っていたかもしれないし。私としても、小さなトラウマとしてあまり気にも留めていなかったのだ。
そうなのだ。気にも留めていなかったのだ。
今日も携帯にダウンロードした曲を聴きながら、いつものコースで散歩をしていた。今日は若干曇ってはいるが、天気が悪いというわけではない。丁度良い天気とでも言おうか。過ごし易い日である事は間違いない。
私は強烈な日差しは苦手だ。小さい頃からそうだったのだが、頭痛が止まないのだ。運動会や遠足の時は大抵快晴で、私は常に頭痛だった。そういう日はなるべく外に出ないようにしていたのだ。周りの人に相談したこともあった。大抵みんな驚き、不思議なモノでも見るような目で見てくる。私にはそれが快感だった。人と違う自分。思春期前の私にとって、それはクールで素晴らしかった。
人と違う自分。私にとってこんなに素晴らしい言葉はない。唯一無二、オンリーワン。なんて素晴らしい響きなのだろうか。そんな考えだから友達も少ないんだなと思う。決して人に受け入れられる性格ではないことは自分でも認識している。それも人と違うのだと前向きに認識しているから、余計にタチが悪い。でもそれを変えようとは思わなかった。
そんな事を考えながらいつもの赤門へ。この裏には例の公園がある。いつもと同じ、モヤモヤとした気持ちで歩いていった。
公園が見えた。いつもと同じ風景。錆びた滑り台、ブランコ。どこからが境界線か全く分からない砂場。そう、いつもと同じ風景だ。
しかし、そのいつもと同じ風景のはずの公園が、今日はなんか歪んで見えた。多分自分だけだろう。何だか説明する事は出来ないが、何かが違うのだ。
いつもならスルーするだけの公園に、何故か今日は足を踏み入れようと思った。何故そんな気持ちになったのかは分からない。その歪みだって、いつもなら軽く流していたはずだ。ただの気まぐれ。気まぐれだったハズだった。
ベンチの所まで来て、私はベンチに座った。風雨に汚れたベンチ、普段なら絶対座ることなんかない。でも今日は違った。何かが違ったのだ。
その時、足に冷たい感覚があった。驚いて見ると、その冷たさはすっと足から逃げた。
私は気味が悪くなって立ち上がった。そして一歩踏み出した時、何かを踏んだ。
それはさっきの冷たさ。一匹の小さな蜥蜴だった。