運転免許証を取ってから初めて助手席に乗せた人は、父だった。

その車は、父が母に借金して買ってくれた。母は、私が運転教習所に行き始める直前に車を買ってくれたが、父が文字どおり乗っ取ってしまった。私は東京在住、父は地方在住、1台の車をシェアすることはできなかった。だから父は私に弁償せざるを得なかった。しかし、日常的に支出過多の父には車を買う金がなかった。

私は、納車3日目に、車で実家に帰り、道路に駐車中の隣町の八百屋の軽トラの右後ろ角に、自分の車の左フロントフェンダーをぶつけた。その部位が大きく膨らんだデザインだったためだ。いや、違う、運転技術未熟だったためだ。被害者は、「俺の車なんかいいけどさ、あんたの車、新車じゃねぇか」と言って、私の車に出来たばかりのヘコミを大事そうに撫ぜた。別れ際には、「気ぃつけてけぇ(帰)れよ」と言ってくれた。

そういうレベルのドライバーの車に乗りたがる家族は居ない。だが、ある日、父が私に「東京まで送ってくれ」と言ってきた。私は愛車で実家に行った。父が私の車に乗り込むと、母が門の前の石畳をオロオロ徘徊した。車中で、日頃おしゃべりの父は、両こぶしを膝の上でしっかり握り、珍しく言葉少なだった。

後から聞いた話では、父は、田舎のタクシーに東京まで乗った形跡を残したくなかった。自分の車は(元は私の車)、母の好みで買ったためスタイリッシュで人目を引いたうえ、東京では気になる田舎ナンバーだった。そのため東京ナンバーの私にアッシーに頼んだ。なぜなら父は、逃走中の人の出頭環境を整えるミーティングに出席するために上京したからだ。その人は、父のナンバープレートと同じ地域属性だった。

その父、錬金術師の異名をとった母が早逝してからも浪費癖がたたり、子どもたちの相続分まで使い果たして他界した。晩年は、責任追求を恐れて子どもたちからのコンタクトを拒否し続けた。最後は、金がなくなり、同居女性にも見捨てられ、ひっそり介護ホームに身を隠した。

私は、成年後見人から父の死の連絡を受け、父が最後の数年を誰とも交渉なく暮らしたことを知らされ、(会いたかった)と涙した。姉もしかり。父の頭と母の心を受け継いだ私は、老人1人くらいなら細々支援できる資力に恵まれた。そのくらい父は想像できたろう。しかし、金と女欲しさに非常識のソシリをモノともせずに生き抜いた割には、たまに常識に屈することのあった父は、自分は許してもらえない、と思ったのだろう。

実際、姉は当初、思い出と悲しみと怒りに取り乱し、この星の裏側からテキストで叫んだ。
姉「あの人の骨なんか、ドブに捨てましょうよ!」
私「あ、それは法律で禁じられてます、みんなが捨てるとドブが詰まりますから」
姉「じゃあ、海に」
私「費用が大変です、高倉健さんみたいなお金持ちでないと、なかなか」
姉「それなら市営墓地は?」
私「最近は公営墓地の空きが少ないのと、手続きに手間がかかるので、今はちょっと」
姉「どうするの!母と一緒なんて許せない!あの人に、そんな資格はないわ!」
私「では、父の実家に頼んでみましょうか」
姉「よし」

もっとも、時間が経って、たくさん涙をすと、姉は落ち着いた。
姉「遺骨は、父の希望どおり、母の元に納骨してあげましょう」
姉は浪費癖を除いて父親似だ。とりあえず感情に任せて暴走するが、心根は優しい。

かくして私は、父の遺骨を助手席に乗せ、親子ラストランのステアリングを握った。

骨に八つ当たりしても、死者の人格矯正はできない。既に生じた損害は補えない。1世代の怒りで1人を墓から排除したら、墓が増えて次世代以降に迷惑だ。クズ人間だって5毛(=0.5%)の魂、有りのまま弔ってやろうじゃないか。

政府のワクチン接種登録システムの作り方が、一般的なデータベースと著しく違っていることが、今日も話題になっている。政治家は、遠回しながら、請け負った業者の能力が低いかのような発言を繰り返している。信じていいのか?日本の政治家は、データベースのデータ行を削除しろと言ってはばからない人たちだ。

誰でも何回でも登録できてしまう、と初日からマスメディアに叩かれた自衛隊ワクチン登録システムが、今日は、正当な高齢者が登録できない、という非難を浴びている。おそらく、政府が、登録データのチェック機能を設けて重複登録を防止しようとした結果ではないかと推測される。チェック方法は複数あるが、政府は、生年月日と区のワクチン接種券番号の「2項目」のみを重複チェック項目にした模様だ。これにより、すでに登録が完了した人と、たまたま生年月日と接種券番号が両方とも一致する、他の区の住民が登録しようとすると、重複とみなされて登録できない、ということらしい。

接種券番号は、区ごとに出しているので、もともと一意の番号ではないことは周知の事実だった。だから、接種券番号の重複は予想されたことだ。担当大臣は、当初から、「政府が用意した登録システムは、時間がなかったため、各区が管理する接種対象者システムと連携できなかった」という趣旨の発言をしていた。だが、各区のデータベースと連携しなくても、自衛隊ワクチンの登録初期画面には、最初に市区町村コードの入力フォームが配置されているので、登録者の帰属市区町村を含めた「3項目」の重複チェックは、最初から可能だった。

 

これに関連して、「市区町村コードのチェックがない」という批判もある。市区町村マスターテーブルを用意していないはずはないので、入力データのチェックでサーバ負荷を増やさないよう配慮したのだろうか。しかし、個人ごとの真偽チェックができない(結果として、しなくてよい)ことを活かした負荷軽減もある。たとえば、市区町村をメニュー選択式にし、登録者が選んだ市区町村に該当するコード番号をサーバーに直送する(野蛮か)だけにしておく。開発側にとっては単純な作業だし、登録側にとっては数字キー入力より間違いが少ない。

 

それにしても、なぜ、市区町村コード番号をキー入力させることにしたのだろう。横道に逸れるが、自治体システムに対しても同じ疑問を抱く。入力内容が唯一であるのに、あえてマニュアル入力させる自治体がある。例外入力を想定してフォームをサンプル表示にした自治体もあるが。

 

ともあれ、前述の2作業は、どちらもハイレベルな知識を要さない。

もう1つ取り沙汰されているシステム問題は、登録者が「自分の生年月日の入力間違いに気づいて前画面に戻ると、書き換えができず、登録できなかった」と複数の都民が証言していることだ。高齢者や家族らによると、「再起動しても、時間をおいてからやってもダメなので、違うパソコンでやったり、インターネットを換えてみたりした。それでも同じ接種券番号では登録できなかった」とのこと。これは、問題が、登録者の端末のデータ保持機能ではなく、システム側にあることを意味している。

 

いったん登録したデータの更新を制限することは、会員登録の生年月日などで用いられることが多い。1つしかあり得ないデータなので、更新制限をかけること自体は誤りではない。しかし、どの段階でシステムにデータを書き込むかは配慮を要する。キーの打ち間違いは誰でも起こし得るからだ。そのため、タイプミスを想定して、登録者の端末のデータ保持機能を一時的に利用して、入力内容を確認させるプロセスを経ることが、今では一般化している。

 

デジタル労務者らは、開発時間が足りない中で、顧客の断片的な要望に押されて、よく考えずに作業してしまったのだろうか。たとえば、登録者の手間を減らせ、とか。闇雲にサーバの負荷を減らせ、とか。

こうなると、いくらかは偽登録や重複登録を含んでも、どんどん無差別登録できる大雑把で欠陥だらけのシステムの方が、高齢者に親切だったかもしれない、と思うようになった。

 

まもなく国のコロナワクチン受け付けが始まる。東京と大阪で、それぞれ1日1万人と5千人、3カ月間おこなうそうだ。接種は申し込みの1週間後。実施は自衛隊がおこなう。というわけで当然モデルナだ。自衛隊の軍事訓練とモデルナの大規模人体実験を兼ねている。


それでもモデルナがファイザーと同じようにインド株にまで対応しているなら悪くない話だ。だが、そういうデータは今のところ出ていない。果たして無認可のモデルナに都民は殺到するだろうか。


都内某区では、予約が区の手持ちのファイザーワクチン10万人分を超えた途端、予約申し込みが激減した。10万からあぶれた団塊区民は、「モデルナでもいい!早く!」と考える人も多いだろう。なぜなら、現在、日本で小爆発中のコロナは英国株であり、モデルナは英国株には対応しているからだ。


この自衛隊モデルナワクチン作戦は、ファイザーの不足分を無認可のモデルナで補うという姑息な手段だが、このアイデアは官僚的に賢い。国際的に不評の日本のワクチン普及率を上げられるし、現実に感染と重症化を大幅に減らすことができる。ただ1点、思い切って評価しきれないのは、日本で医療関係者対象の実績のあるファイザーと違って、まだモデルナは国内での使用後データがないことだ。

 

 

◎ワクチン接種予約サイト(自衛隊東京大規模接種センター(東京会場))

追記:上記予約サイトに開始時刻にアクセス、当然パイルアップ。しかし、「この画面を開いたままお待ちください」「お待ちいただいている方の中から予約画面にご案内いたしております。」「お待ちいただきますと自動的に予約サイトに切り替わります。」という美しいシステム構築にウットリ。ところが、本人確認の照合を一切しないシステムであることが後から発覚。日本のワクチン接種ポリシーでは、あり得ない設計だ。ふぅ。

 

再追記:さらに、その後、本人確認用のデータテーブル自体が、どこにも存在しない(システム内にもなく、外部連携もしていない)システムであることを、防衛省は吐露した。重複登録も認める設定になっていると報道されている。DB屋は、よほど顧客(防衛省)が強く求めない限り、そんなシステムは作らない。おそらく防衛省なりに考えがあったのだろう。たとえば、1つのメールアドレスで親戚中の高齢者の登録を代行できるようにする、とか。ワクチン自由広場...か。
 接種会場に混乱が起きないことを祈る。

同じ島国である英国と日本の、コロナワクチン普及率や、日ごとのコロナ新規感染者数の総人口に占める割合を、じっと見比べると、日本は神風に守られているような気になってしまう。

ワクチン普及率50%の英国と1%の日本には大差がある。それなのに新規感染者率は、近いとも言える数値だ。その理由は、遺伝子の民族的な差かもしれないし、両国の生活習慣の違いかもしれない。前者は、いかにも、という気がするし、後者も、おおいに思い当たることがある。日本人は、英国人に比べると、よく手を洗う。うがいもする。使った蛇口を洗う習慣は今でも少しは残っている。これらの習慣が感染拡大抑制に寄与していると感じるのは私だけではないだろう。

私は、この3つの生活習慣は、神社の手水舎の作法に由来するのではないか、と勝手に思っている。手水舎とは、手を洗う簡易設備のことだ。よく見掛けるタイプは、大きな石をくり抜いてバスタブのような水溜めを造り、その中に向かって龍などが口から水を吐いている。参拝者は、社殿に近づく前に、そこで柄杓に水を汲み、まず手を洗う。次に口をすすぐ。最後に柄杓の柄に水を流す。

参拝前の手水は、元は神社の手前の川で行水して身を浄めた行為を、簡略化したものらしい。水がないと神社を作れないのでは、立地が制限されて不便だ。そこで手水舎。神社側はどこにでも神社を作れるし、参拝側は着替えの手間と荷物と時間を倹約できる。まことに経済効率の高いウィンウィンな妙策だ。おかげで、各地のたくさんの民衆に、手洗い、口すすぎ、持ち手洗いの儀式が広まり、儀式は日常化して習慣となり、長く後世に残った。(これは私の推測)

水で身を浄める行為は、神話に由来すると言う人もいるが、行動の区切りの儀式のようなものだ、と考える人も昔は少なくなかった。私が子供の頃、起床時に手を洗い口をすすぐ親戚の年寄りに、「なぜ?」と問うと、「今まで寝ていたところから起きて1日が始まるのだから、その変わり目に区切りをつける」のような説明を聞いた。他の年寄りも、トイレの後や来客を迎える時など同じ行為をした。それまでの行動セッションに終点を打ち、気を新ためて次の行動セッションにはいる、という趣旨の説明は、みな同じだった。日常生活は、たくさんの行為から成り立っているので、水で区切りをつける機会は多い。

神社は神を祀る所だ。日本の神々は、いつ、なぜ、どのようにして生まれたのか知らないが、その種類は多岐にわたる。土地の神だの風の神、池の神、木の神、森の神、等々、地域民共有の神様たち。家神、塾神などメンバー限定の神もいる。数は多いが人との関係はシンプルだ。そこへ外来宗教が輸入されたり、政治事情や経済事情から多様な神々がM&Aで統合されたり、複雑化した。激動の時代もあったろう。だが、氏子らの神道的生活習慣は世代を超えて伝えられた。

社会の変遷の中で、手水習慣を、どうやって日本人は維持できたのだろう。ここには民族遺伝子が登場する余地がありそうだ。もしかしたら、セロトニントランスポーターの遺伝子型が関係しているのでは?セロトニントランスポーターの某部分の遺伝子の形には、SS型、SL型、LL型の3つがあり、多くの民族は、その割合が30%から40%くらいにバランス良く分布しているらしい。ところが島国ジャパン国民の場合、SS型が8割を超えるという。極端だ。この部分の遺伝子型は性格と関連があるそうだ。LLは恐怖心が薄弱で、SSはその逆らしい。SS型集団は、臆病、用心深い、という特徴のある集団とも言えるだろう。

人類の集団は、世界の各地で、古代から何度も、感染症の流行と闘って、勝ち抜いてきたと思う。それぞれの集団ごとに克服方法の違いはあったろうが、感染を少なくするために手を洗う、これは、どの集団も試みたのではないだろうか。そうであっても、喉もと過ぎれば熱さを忘れ、汚れた手をなめながら果敢に前進するのが英国魂だ。ところが、臆病遺伝子で武装した神道国民は、「もしかして次の時...」などどと自らを戒め、手を洗い続けたのではないか。アライグマと日本人は、こうして神風に守られることになった。

詐欺犯の憂鬱

新年度が近づいた。事情を知らない区民が新たに無用な犯罪に巻き込まれる。本来なら犯罪とは無縁な普通の区民だ。事態は差し迫っていた。これに関して担当課が何もしなかったわけではない。ソフトランディングを目指して苦慮してはいた。しかし確実な方法ではなかった。

私は、区長宛に、詐欺には言及せず、数値制限による解決案だけ書いて、メールを送った。目的は新たな犯罪者造成を阻止することだった。いささかラフな数値制限だったが、内部事情を知る私は、それだけで十分に目的達成できることを知っていた。メールの末尾に、「担当課には解決能力がないので区長の責任で対応して欲しい」旨も書き添えた。しかしメール仕分け担当職員は、私のメールを担当課に丸投げした。当然、まともな回答は来ない。

正義は、人々を傷つけ、人々の人生をつまづかせ、その割に社会の利益は多くはない。今、詐欺犯が自首しないことは、多くの人々を救う。同時に新たな犠牲者を産む。この道は、行くも帰るも重苦しい景色が待ち受けている。

解決策はあるか。あるにはある。だが、まず自治体が、職員の職務上の失敗を、「人間が働いていれば当然に起こりうる事象」として受け入れる必要がある。そして、失敗体験のデータを集めて分析し、再発防止の判断基準を、だれが担当になっても迷わないよう「数値で設定」することは欠かせない。数値があれば、職員は3、4年で配置換えになるが、着任直後であっても大失敗はしないで済む。

役所の仕事が判断を人間味のない数値に頼るべき理由は、役所の体制には避け難い隙間があるためだ。詐欺を企画できるほどの知恵者は、名高い役所の縦割りギャップを熟知しているし、部署内に横割りギャップがあれば察知できる。前者は、部署間の相互連絡の欠如のことで、後者は、担当者の配置転換時の引き継ぎ不全を意味する。この情報共有の隙間があるために、市民区民による自治体相手の不正行為を、現場職員は見抜きにくい。しかし、実態から導き出したしきい値は、ギャップを埋めることはできないが、事故件数を限定することはできる。そうなれば双方の犠牲者数が連動的に減少する。

だが、私の提言は蹴られた。もっとも、それにはそれなりの事情があった。自治体上層部が職員の職務上の失敗を「あってはならぬ事態」として目くじらを立てる環境では、職員が保身を優先して進行中の事件を隠蔽することは人として自然な選択だ。また、無防備に横たわる助成金の前で、区民が(もしかして、ワタシ、誘われてる?)と勘違いすることも、人の社会では自然の流れの中のヒトコマだ。関係者の心の自然は、互いの立場を超えて、共に平和な均衡を愛し、法と正義を排除した。かくして詐欺犯の憂鬱は続く。(おしまい)

薄氷の上で踊る自治体職員と加害者

私は、自分の居住区の行政を勝手に自慢に思っている。私好みの文化振興に熱心だからだ。それだけに区を相手に詐欺をした自分が哀しい。せめて自分だけでも贖罪しようと思った。そこで私は担当課に電話して、不正申請を取り下げ、区が支出済みの助成金を弁償したいと申し出た。すると担当課スタッフは、「前例はありませんが、警察沙汰になるようなことであれば、協力します」と言ってくれた。

ところが、主犯が誰であるかに気づくや、職員の態度は豹変した。いわく「区民と区の信頼関係に基づいて提出された申請を、区は信頼関係に基づいて処理し、信頼関係に基づいて支払いを完了したのだから、信頼関係に基づく区民の取下げであっても応じられない」と。私には理解できない行政理論の反復を聞いているうち、諦念が湧き、(私の贖罪は粗野で、オシャレな都会じゃ芋くさいんだ...)と、みじめに萎縮し、最後は胸の奥でギャーテーギャーテーと呪文を唱えた。

しかし、自分の贖罪は自分が諦めれば済むが、新年度から新たに組織犯罪に引き込まれる善良な区民に思いを至すと、(コレッ!自分!逃げちゃダメでしょ)と、小さな良心が無責任な声をあげた。ホント、食い止める方法はないのか。そのとき、主犯や続行派が言っていた「他の団体も同じことをしている、私たちだけが特別ではない」が思い起こされた。赤信号は、みんなで渡れば青になる。そうだ、信号の色を変えよう。まずは実数を把握しなければならない。私は、同じ助成金を受けた全団体の交付実績記録の情報開示を区に求めた。

だが、担当課の別の職員が、個人情報保護を理由に開示を拒んだ。私は言った。「私が警察に自首したら、捜査当局は区に情報提供を求めます。あなたが一区民に対して拒否なさっても、区は警察に対して拒否しません」この発言のお陰で職員は情報開示に同意した。若い頃に読んだ筒井康隆氏の「毟り合い」という短編を思い出した。その話の最後は、犯人がホットラインで、「今度は俺の指を切るぞぉ」的な台詞で脅迫する、だったような。自首も脅迫だろうか。

そのとき職員は、こうも言った。「きちんと要件が整っていれば、書類からは、私たちにはわからないんですよ」弱々しい掠れ声に聞こえた。私は言った。「犯罪を隠蔽する気はないですけど、緊急性のない犯罪ですから、私には告発する義務はないと思っています」電話の向こうから安堵の声が漏れた。まもなく開示情報は届いた。

助成金の交付実績一覧を見ると、明らかに不審な団体のネットワークは、確かに私たちの他にもあった。だが、それら区民シンジケート2系統を合わせても、大手を振って青信号に変えられるほどの圧倒的多数には至らなかった。しかも年間グランプリは私たちだった。(続く)
 

犯罪脱却の足掻き

現役を退いてから、都会の自治体が提供する助成金を詐取する組織犯罪に巻き込まれた。標的になっていたのは小規模団体向けの少額助成金で、1団体あたり1年に1回の申請に限るという制限があった。私が属した団体は、複数の架空の団体名を使って多数の申請をしていた。この団体に入会すると、区民は次々と実行犯に任命される。

その状況に心を痛めた私は、主犯の片腕に犯罪脱却を提案した。しかし私のアドバイスは、「まぁまぁ、そんなに真剣に考えないでくださいよ」と、豆腐の角で撃退された。次に私は主犯にアプローチした。主犯は「もし違法なら、なぜ区の担当者は何十年も一度も文句を言ってこなかったんですか?おかしいじゃないですか!」と、真剣で切り返してきた。確かに、おかしい。単純明快な詐欺を、なぜ放置してきたのだろう。やっていることは普通に詐欺なのに。

最後に私は、実行犯を含む団体メンバー全員に犯罪脱却を呼びかけた。しかし、私の説明を理解したのは、意外なことに主犯を含む少数だけだった。主犯の脱却宣言をよそに、不正申請続行派は熱弁を振るった。

ある人は、「違う団体名で助成金を申請することは、架空の団体による申請ではありません。ちゃんと私たちの団体は、ここに存在しています。私たちは絶対に架空ではありません。申請に使った団体名が違うだけです」と。

すると他の人が、「いいえ、違う団体名ではありません。メンバーが全員同じで、いつも一緒に同じ活動をしていても、それぞれ別々の団体です。私が代表を任されたXXX(架空の団体名)は、YY(実在の団体名)とは別の団体です。私は、それを信じています」と。

私は問うた。「あのぅ、私も、あなたの団体の会員ですか?」その人は背筋を伸ばして答えた。「もちろんです!」嗚呼、いつのまにか私は名も知らぬ団体の会員になっていた。衣装を脱ぎ替えるように所属団体名が毎月変わっては、私の老脳は月々の名前を追いきれない。

意気揚々の異次元理論に、目玉にウロコをバシッと貼り付けられたような衝撃を受けた私は、退散するしかなかった。(続く)
 

現役時代、私のアシスタントが、私の顧客である地方の自治体に対し、私の名を語って数百万円規模の詐欺をしたことがある。事件の翌年、担当課の課長と雑談中、私はそのことを知った。私は即座に、「それは私の請求ではない、騙し取られたお金はアシスタントから市に返還させる」と言った。ところが課長は、「それはやめてくれ」と言う。理由を問うと、「もう前の年度の会計は終わってるから、今更ひっくり返されては困る」と答えた。そう答える表情が余りにも困り顔だったので、私は早期に問題解決に動き出すことを留保した。


それから間もなく、同じ自治体の人事課にいた知人と、たまたま会食をした。共通の知人の噂話をするうち、くだんの課長も話題にのぼった。知人は、「あの人は人望があって、能力もあるから、私も一目置いている。今ちょうど他の部署のご栄転候補に推薦している」と言う。


再び課長に会った折り、よもやま話の中で詐欺事件に触れたとき、私は「犯罪を隠蔽する気はないですけど、緊急性のない犯罪ですから、私には告発する義務はないと思っています」と言った。課長は私に「ありがとう」と言って頭を下げた。

初めまして、ヨロシクです。ブログという言葉が生まれる前の時代、自作ブログシステムを運営していたこともありますが、仕事に追われて沈没してしまいました。現役引退+コロナ自粛で時間を持て余す今、ネット界にブログシステムが生き残っていてくれたことがウレシイ高齢者です。