こんにちは。🐰
このブログにはふだんあまり周りのひとには言えなかったり相談できなかったりすることや、モヤモヤ〜っとすること(笑)などを書こうと思ってます。
とりあえず履歴だけ。
19☓☓年 (小学4年生)転校して今の土地に住む。
(以前はディズニーランドの近くに住んでいました)誕生日には必ずディズニーランドに行っていたのですが、当時は、今ほどは混んでいなかった。たしか、ジェットコースター系のものにも一日で7、8回は乗れる感じ。すいてると10回くらい。
(小学5年生終わり)近所のピアノ教室に一年ほど習ってから、母の勧めで、また近所のべつのピアノ教室○×△に移動しました。当時は新しいピアノの先生が大嫌いでした。。。妹が先に習っていたはずだったのですが、妹は早々に辞めてしまいました。妹の最後の発表会の曲は忘れもしないディズニーのハイホー!!連弾は、たった25秒の『ボロ馬車』ならぬ『ホロ馬車』。
(中学2年生)○☓△のピアノの先生から、なぜか強烈に音楽高校に行くように勧められていたけれど、勉強を頑張るほうが将来稼げると思ったので、志望校は進学校にしました。毎年合唱祭のピアノ伴奏と校歌の伴奏はやっていました。とてもピアノが楽しい時期でした。でも、もう受験生になるので、○☓△のピアノ教室はやめました。
(中学3年生3月)なぜか受験生なのに、クリスマスに好きな人に告白するという一大事を行いました。(今思えばなんであのタイミング??(笑))
当時目指していた志望校は県内の公立高校の2番目のところでしたが、あまり最後に成績が伸びないし、倍率が高くて不安になり、志望校を変えました。そのとき、地元のトップ高でよかったのに、その振られた彼がそこを目指していたので、べつ学区のトップ高にしました。
一応受かりました。。。
(高校2年)よくわからないまま茶道部で適当に部活動を行い、勉強もまさに真ん中のちょっと上くらい。中途半端。ピアノもまた○☓△で再開しました。
進路のことを考え出すと、急に音楽をやりたいと思ったけれど、母に相談すると大反対。なんで、じゃぁ音楽の高校にいかなかったの???!怒!!!と手がつけられない怒りに屈服して、ふつう大学を目指しました。高校時代に最後に取り組んだ曲は忘れもしないショパンのバラード1番。もう弾き飽きたくらい弾いた曲、、、。
(高校3年)とくにやる気もなく、地元国公立と2つの私大を受験して、落ちました。このときやる気がなかったのは本当に親に申し訳なかった。けれど、どうしたらやる気がでるのかよくわからなかった。
(浪人生活)なにを思ったのか?大手予備校の東大志望のクラスに入りました。(笑)
同じ高校の女のコもいたので安心感があったようで、、、。
でもそこに来ていた人たちはもう自分とは人種が違うというくらいの出来の良さで、、、もはや会話からして違う!と毎日ひしひし感じていました。なのにみんな謙虚。
先生たちもものすごい知識人、頭が良い人で、そこまでなんとなーく生きていた私の人生の中で、一番衝撃と刺激を受けた一年間になりました。
とはいえ、また本気になれなくて、結果はまた別の国立の大学に落ちてしまったけど(両親に謝りたい)、私大の全額給費生は受かりました。それとは別の私大は受かればけっこうステータスだったけれど、情報開示すると3点足りなくて落ちていました。本当に根性がないと自分で思いました。
一番覚えているのが、予備校のすごく人気で有名な先生が授業中に『ここにいる人は今一番したいことは、大学に受かることだよね??そうじゃない人はここにはいないほうがいい』と優しく言ったとき、わたしははっきりと心の中で違和感を感じていたこと。それと国立大学の二次試験の直前に、『え、、もしここ受かったら、4年間ピアノ弾けないじゃん!?』と思っていたこと。
なんでこのときの自分はここまで中途半端だったんだろう??と今でも後悔するし、自分を責める。
(大学一年)センター試験で通った私大に通うことに。ピアノを解禁した。また○☓△ピアノ教室に行き始めショパンのソナタ3番をやることに。
当時は、楽譜も苦手だし、あんなに難しい曲をいきなり選んでしまって、一楽章だけで半年くらいかかっちゃった。そして、なぜかここで再会した○☓△ピアノ教室の先生と、去年結婚しました。
このブログにはふだんあまり周りのひとには言えなかったり相談できなかったりすることや、モヤモヤ〜っとすること(笑)などを書こうと思ってます。
とりあえず履歴だけ。
19☓☓年 (小学4年生)転校して今の土地に住む。
(以前はディズニーランドの近くに住んでいました)誕生日には必ずディズニーランドに行っていたのですが、当時は、今ほどは混んでいなかった。たしか、ジェットコースター系のものにも一日で7、8回は乗れる感じ。すいてると10回くらい。
(小学5年生終わり)近所のピアノ教室に一年ほど習ってから、母の勧めで、また近所のべつのピアノ教室○×△に移動しました。当時は新しいピアノの先生が大嫌いでした。。。妹が先に習っていたはずだったのですが、妹は早々に辞めてしまいました。妹の最後の発表会の曲は忘れもしないディズニーのハイホー!!連弾は、たった25秒の『ボロ馬車』ならぬ『ホロ馬車』。
(中学2年生)○☓△のピアノの先生から、なぜか強烈に音楽高校に行くように勧められていたけれど、勉強を頑張るほうが将来稼げると思ったので、志望校は進学校にしました。毎年合唱祭のピアノ伴奏と校歌の伴奏はやっていました。とてもピアノが楽しい時期でした。でも、もう受験生になるので、○☓△のピアノ教室はやめました。
(中学3年生3月)なぜか受験生なのに、クリスマスに好きな人に告白するという一大事を行いました。(今思えばなんであのタイミング??(笑))
当時目指していた志望校は県内の公立高校の2番目のところでしたが、あまり最後に成績が伸びないし、倍率が高くて不安になり、志望校を変えました。そのとき、地元のトップ高でよかったのに、その振られた彼がそこを目指していたので、べつ学区のトップ高にしました。
一応受かりました。。。
(高校2年)よくわからないまま茶道部で適当に部活動を行い、勉強もまさに真ん中のちょっと上くらい。中途半端。ピアノもまた○☓△で再開しました。
進路のことを考え出すと、急に音楽をやりたいと思ったけれど、母に相談すると大反対。なんで、じゃぁ音楽の高校にいかなかったの???!怒!!!と手がつけられない怒りに屈服して、ふつう大学を目指しました。高校時代に最後に取り組んだ曲は忘れもしないショパンのバラード1番。もう弾き飽きたくらい弾いた曲、、、。
(高校3年)とくにやる気もなく、地元国公立と2つの私大を受験して、落ちました。このときやる気がなかったのは本当に親に申し訳なかった。けれど、どうしたらやる気がでるのかよくわからなかった。
(浪人生活)なにを思ったのか?大手予備校の東大志望のクラスに入りました。(笑)
同じ高校の女のコもいたので安心感があったようで、、、。
でもそこに来ていた人たちはもう自分とは人種が違うというくらいの出来の良さで、、、もはや会話からして違う!と毎日ひしひし感じていました。なのにみんな謙虚。
先生たちもものすごい知識人、頭が良い人で、そこまでなんとなーく生きていた私の人生の中で、一番衝撃と刺激を受けた一年間になりました。
とはいえ、また本気になれなくて、結果はまた別の国立の大学に落ちてしまったけど(両親に謝りたい)、私大の全額給費生は受かりました。それとは別の私大は受かればけっこうステータスだったけれど、情報開示すると3点足りなくて落ちていました。本当に根性がないと自分で思いました。
一番覚えているのが、予備校のすごく人気で有名な先生が授業中に『ここにいる人は今一番したいことは、大学に受かることだよね??そうじゃない人はここにはいないほうがいい』と優しく言ったとき、わたしははっきりと心の中で違和感を感じていたこと。それと国立大学の二次試験の直前に、『え、、もしここ受かったら、4年間ピアノ弾けないじゃん!?』と思っていたこと。
なんでこのときの自分はここまで中途半端だったんだろう??と今でも後悔するし、自分を責める。
(大学一年)センター試験で通った私大に通うことに。ピアノを解禁した。また○☓△ピアノ教室に行き始めショパンのソナタ3番をやることに。
当時は、楽譜も苦手だし、あんなに難しい曲をいきなり選んでしまって、一楽章だけで半年くらいかかっちゃった。そして、なぜかここで再会した○☓△ピアノ教室の先生と、去年結婚しました。