ここ数日、日付が変わってからPCを起動しているので更新時刻が0時を過ぎることが多くなりました。
大好きな蘭の花の写真を掲載します。
深夜一人で静まり返った部屋の中でPCを起動していると、温室の中で自由きままに咲く蘭の花を想起します。
華やかでありながら、妖しさも感じられる不思議な空間でした。
何故私が趣味としてピアノと触れ合うことを続けられているのか、少し考えてみたところ、いつでもやめられる自由を確信できるからだという理由に行き着きました。
勿論、趣味である以上、その行為自体が好きだという感情はあります。
ただ、趣味として毎日ストレスなく練習を続けられる理由として一番大きいものは、続けることに対する義務が課せられていないこと、これに尽きると考えています。
今すぐにでもやめることができる、この気楽な思いこそが確たる継続を生み出すこともあると言えば矛盾していると思われるかもしれませんが、この気楽さがなければピアノを続けることに喜びを見出すこともできず、その状態を予期して最初から手を付けることはないと私は思うのです。
更に言えばやめることによるリスクがないことも重要なポイントです。
温室に美しく咲き誇る蘭を愛でる気持ちが湧いてくるのも、自分の好きなタイミングで温室を出ることができるからなのかもしれません。
このアメブロも同様に、いつでも更新をやめることができてAmebaを退会でき、且つやめることによるリスクが全くないから続けることができるのかもしれません。
こう書くと、あたかも私がピアノやアメブロを忌み嫌っているように感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、リスクがなくやめられる性質を持つ物や事柄に魅入られる性質なので、「やめられる」、この点に魅力を感じているのです。
旅行や人混みの中の散策を心底楽しめるのも、一人で寛げる家に帰れる確信があるからで、定期的に移住先を探さなければならない境遇にあったり、常に誰かに縛られて生活している途中に数日間だけ自由に外出できるという環境であれば、旅行を終えて帰った後の嫌な思いを想起して旅行自体を存分に楽しめることはないと私は断言できます。
【本日のピアノへの取り組みについて】
・バッハ インヴェンション全15曲
・バッハ シンフォニア第11番 ト短調
(ここまで各1~2回ずつ通しただけ)
・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調
・シューベルト 即興曲Op.90-2 変ホ長調
・モーツァルト 幻想曲K.397 ニ短調
・その他(スケール・アルペジオ・半音階)
モーツァルト 幻想曲K.397 ニ短調に惹かれている理由の一つに、モーツァルト特有の執拗な展開形式や常にテーマを意識したロンド形式からは逸脱していることが挙げられます。
曲調が軽快なわけでないのに、1曲を通してフットワークの軽さを感じる事ができる、一点に縛られることのない気軽さを感じるのです。
一般的なロンド形式の楽曲全般に言えることですが、中間部を練習している時にも常に主題部に対して「帰らなければならない」ような、常に誰かに縛られて生活している途中に数日間だけ外出できる自由を与えられた状態を想起してしまい、嫌気が指してきています。
モーツァルト 幻想曲K.397 ニ短調の場合、どこを練習していても「もう帰ってこなくてもいいんだよ」と告げられているようで、故郷から放り出されるわけでもなければどこかに縛られるわけでもない、そんな気楽さを感じると共に、どこかに帰属している意識がない心境になるのです。
ピアノを再開して今までモーツァルトの楽曲に取り組むことを避けてきた最大の理由は、私の潜在意識の中で、展開形式に対して絶対に故郷から逃がさないと威圧されているような雰囲気を感じ取っていたからなのかもしれません。
所属する事、帰属意識、これらがモーツァルト 幻想曲K.397 ニ短調からは感じられないから惹かれるのかもしれません。